行書五言絶句詩軸

ぎょうしょごごんぜっくしじく
     

巌谷一六(1834~1905)は、名は修、字は誠卿、一六、古梅、金粟などと号した。近江(滋賀県)水口藩の侍医の家に生まれ、幼時から学を好み、明治維新後、政 府に仕えて貴族院議員となった。書は初め、中沢雪城につき巻菱湖風を学び、また、趙子昴を好んだ。明治13年(1880)、楊守敬の来朝によって日下部鳴 鶴、松田雪柯らと共に六朝書道の教えを受け、おびただしい古碑法帖を研究し、その天分にまかせて新奇と飄逸さにまた別の新しい書風を生み出した。
起筆、ハライ、ハネに所々見られる三角形の形状は、六朝書風の影響が色濃く出ているが、伸び伸びと筆を進める書きぶりは、鳴鶴の整然とした書風とは一線を画す。全体的に右肩上がりの運筆のなかに、所々ぶれを作ることで、全体のバランスが自然に保たれている。

                                               
作品名行書五言絶句詩軸
ふりがなぎょうしょごごんぜっくしじく
作者巌谷一六
国名日本
制作年明治中期~後期
寸法127.7×50.3cm
目録番号日-書-010
釈文同雲掩城市竹筧凍 無聲頼侘今夜雪乱 霰打簷鳴 一六居士

巌谷一六(1834~1905)は、名は修、字は誠卿、一六、古梅、金粟などと号した。近江(滋賀県)水口藩の侍医の家に生まれ、幼時から学を好み、明治維新後、政 府に仕えて貴族院議員となった。書は初め、中沢雪城につき巻菱湖風を学び、また、趙子昴を好んだ。明治13年(1880)、楊守敬の来朝によって日下部鳴 鶴、松田雪柯らと共に六朝書道の教えを受け、おびただしい古碑法帖を研究し、その天分にまかせて新奇と飄逸さにまた別の新しい書風を生み出した。
起筆、ハライ、ハネに所々見られる三角形の形状は、六朝書風の影響が色濃く出ているが、伸び伸びと筆を進める書きぶりは、鳴鶴の整然とした書風とは一線を画す。全体的に右肩上がりの運筆のなかに、所々ぶれを作ることで、全体のバランスが自然に保たれている。

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