顔勤礼碑

がんきんれいひ
     

「顔勤礼碑」は、顔真卿(709~785)の曽祖父である顔勤礼(597~664)と子孫の功績を讃える石碑です。顔真卿71歳の作品になります。顔勤礼は篆書と籀文に巧みであり、崇賢館学士などを務めた人物です。石碑は現在、西安碑林博物館に安置されています。

「顔勤礼碑」は中華民国11年(1922)何夢庚(字は客星・生卒年不詳)によって発見されました。詳しくは、本作に一緒に刻されている、清時代末期から中華民国にかけて活躍した宋伯魯(1854~1932)による跋文に記されています。

跋文1

跋文2

 

跋文には、概ね次のような意味が書かれています。

[現代語訳]
この「顔勤礼碑」は、顔勤礼の曾孫である顔真卿によって書かれている。中華民国11年(1922)10月の初め、何客星が長安(現在の西安)にある布政使所属の倉庫後ろの土中より見つけた。石碑はすでに上下二つに断裂していたが、上下それぞれに欠損は無く良い状態だった。

この碑を知る者は少なく、わずかに欧陽修(1007~1072)の『集古録跋尾』に記されているのみである。宋時代に盛行したが、元・明時代の後に時代が変化する中で、この石碑は長安城内に埋没してしまい、千年経ってしまった。後の学者たちも見たことがなかったものである。

この石碑は大暦14年(779)に建てられた。顔真卿75歳の時に書かれたものである。※71歳の誤りです。

建中元年(780)に建てられた「顔氏家廟碑」とわずかに1年の差である。これら2つの石碑は共に長安に存在していたが、1つは地上に残っており、1つは土中に埋まっていた。このたった1年の間に、どうして他の石碑が存在することが出来るだろうか。

欧陽修は、「顔真卿の書は忠義心の厚い人物のようである。また、その端正で荘厳な様を尊重するからこそ、初めてこの書を見た人はみな畏(かしこ)まり、長い間をかけて愛されるものである」と述べている。

また黄庭堅(1045~1105)は、「顔真卿の書は際立って優れており、魏~唐時代(220~907)以来突如あらわれた雅で力強さを持ったものであり、後の世代における宝となるものである」とも述べている。

何客星は石碑や青銅器の銘文などが好きな人で、「顔勤礼碑」を得て眠れないほどに喜んだ。その拓本を見て、その傍らに事の顛末を記した。このような素晴らしい石碑を彼が見つけたことは、偶然ではなかったのだろう。何客星は河南省の人であった。

中華民国12年(1923)の春、醴泉(現在の陝西省)の宋伯魯が記す。

                                           
作品名顔勤礼碑
ふりがながんきんれいひ
作者顔真卿
国名中国
制作年唐時代 大暦14年(779)刻
寸法35.2×21.7cm
目録番号碑ー顔ー022

「顔勤礼碑」は、顔真卿(709~785)の曽祖父である顔勤礼(597~664)と子孫の功績を讃える石碑です。顔真卿71歳の作品になります。顔勤礼は篆書と籀文に巧みであり、崇賢館学士などを務めた人物です。石碑は現在、西安碑林博物館に安置されています。

「顔勤礼碑」は中華民国11年(1922)何夢庚(字は客星・生卒年不詳)によって発見されました。詳しくは、本作に一緒に刻されている、清時代末期から中華民国にかけて活躍した宋伯魯(1854~1932)による跋文に記されています。

跋文1

跋文2

 

跋文には、概ね次のような意味が書かれています。

[現代語訳]
この「顔勤礼碑」は、顔勤礼の曾孫である顔真卿によって書かれている。中華民国11年(1922)10月の初め、何客星が長安(現在の西安)にある布政使所属の倉庫後ろの土中より見つけた。石碑はすでに上下二つに断裂していたが、上下それぞれに欠損は無く良い状態だった。

この碑を知る者は少なく、わずかに欧陽修(1007~1072)の『集古録跋尾』に記されているのみである。宋時代に盛行したが、元・明時代の後に時代が変化する中で、この石碑は長安城内に埋没してしまい、千年経ってしまった。後の学者たちも見たことがなかったものである。

この石碑は大暦14年(779)に建てられた。顔真卿75歳の時に書かれたものである。※71歳の誤りです。

建中元年(780)に建てられた「顔氏家廟碑」とわずかに1年の差である。これら2つの石碑は共に長安に存在していたが、1つは地上に残っており、1つは土中に埋まっていた。このたった1年の間に、どうして他の石碑が存在することが出来るだろうか。

欧陽修は、「顔真卿の書は忠義心の厚い人物のようである。また、その端正で荘厳な様を尊重するからこそ、初めてこの書を見た人はみな畏(かしこ)まり、長い間をかけて愛されるものである」と述べている。

また黄庭堅(1045~1105)は、「顔真卿の書は際立って優れており、魏~唐時代(220~907)以来突如あらわれた雅で力強さを持ったものであり、後の世代における宝となるものである」とも述べている。

何客星は石碑や青銅器の銘文などが好きな人で、「顔勤礼碑」を得て眠れないほどに喜んだ。その拓本を見て、その傍らに事の顛末を記した。このような素晴らしい石碑を彼が見つけたことは、偶然ではなかったのだろう。何客星は河南省の人であった。

中華民国12年(1923)の春、醴泉(現在の陝西省)の宋伯魯が記す。

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