頼 山陽(1780~1832)は、名を襄(のぼる)といい、字は子成、三十六峰外史などと号した。大阪府出身。江戸後期を代表する儒学者の一人。明治以降の歴史教育に強い影響を与えた『日本外史(にほんがいし)』を著すとともに、多く書画、詩作品を残した。
この作品は六曲一双の屏風に、中国古代・春秋戦国時代に活躍した12人の人物に関する自作詩を揮毫したもの。『山陽詩鈔』巻四に「詠春秋戦国人物十二首」として所収されており、文政6年(1823)頃に作詩されたと考えられ、この作品もその前後に書かれたものと思われる。金地の表装も豪華で、名のある人物からの揮毫依頼であったのだろう。山陽の書は、初め董其昌(1555~1636)を後に米芾(1051~1107)を学び、力強く個性が鮮明であるため、当時より愛好され揮毫を求める者が絶えなかったという。
【参考文献】
頼山陽史跡資料館開館十五周年記念企画展『頼山陽の書風』頼山陽記念文化財団、2010年
寺前公基「頼山陽「月無欠」と望月の歌ー観峰館収蔵書作品の考察とともにー」『観峰館紀要』第10号、公益財団法人日本習字教育財団観峰館、2014年
観峰館紀要 第10号
作品名 | 行書詠春秋戦国人物十二首屏風 |
ふりがな | ぎょうしょえいしゅんじゅうせんごくじんぶつじゅうにしゅびょうぶ |
作者 | 頼山陽 |
国名 | 日本 |
制作年 | 江戸時代後期 |
寸法 | 各134.0×55.4cm |
目録番号 | 日-屏-009 |
釈文 | 姫旦経緯密復見九州裂海 岱政令新匡時須俊傑夏 葵吐異葩不襲桃李徹/操戈已嬰鱗沈璧纔霽威 当時無比叟蛟龍不出池教之 蔵頭角最在稽顙時/四戦困弾丸百練出利器応変 如斬乱鋤豪如擠墜鑄刑 徴錐刀未免傍観刺/憂国中壘尉全身長楽老求 比異代人誰能窺其抱狐裘 三十年知閲幾涼燠/鞭戸快生前抉目憂身後自謂 復仇快欲報知己厚豈知天 嫉楚覆巣一借手/曽譲礼楽地厺為魚鼈長顧 観十五国盛衰現影響後身 一北来冷眼各指掌/兼葭露為霜其勁可為箭秦 民即周民怯闘而勇戦豊鎬 用武国非待商君変/粘合六様山寸舌有膠液豈比張 家兒借威事恐嚇六顆金印 黄二頃春蕪碧/楚王同徽欽魏地比淮江諜 賊為国相到處輒従容秦 桧膽智小欺得一高宗/嗣王得豚犬駿骨化罷駑辛苦 七十城成就一紙書知音遇 諸葛一表力臨摸/宗国看蠶食墓田唯魚腹可 惜投汨羅不得目鉅鹿義帝 江中魂相遇雑笑哭/舌奮身輒逃膓熱心如水九州 無乾浄海波踏可死知否千載 下胡羯幾天子 襄 |
頼 山陽(1780~1832)は、名を襄(のぼる)といい、字は子成、三十六峰外史などと号した。大阪府出身。江戸後期を代表する儒学者の一人。明治以降の歴史教育に強い影響を与えた『日本外史(にほんがいし)』を著すとともに、多く書画、詩作品を残した。
この作品は六曲一双の屏風に、中国古代・春秋戦国時代に活躍した12人の人物に関する自作詩を揮毫したもの。『山陽詩鈔』巻四に「詠春秋戦国人物十二首」として所収されており、文政6年(1823)頃に作詩されたと考えられ、この作品もその前後に書かれたものと思われる。金地の表装も豪華で、名のある人物からの揮毫依頼であったのだろう。山陽の書は、初め董其昌(1555~1636)を後に米芾(1051~1107)を学び、力強く個性が鮮明であるため、当時より愛好され揮毫を求める者が絶えなかったという。
【参考文献】
頼山陽史跡資料館開館十五周年記念企画展『頼山陽の書風』頼山陽記念文化財団、2010年
寺前公基「頼山陽「月無欠」と望月の歌ー観峰館収蔵書作品の考察とともにー」『観峰館紀要』第10号、公益財団法人日本習字教育財団観峰館、2014年
観峰館紀要 第10号