鄭孝胥(1860~1938)は、字は蘇龕、太夷など。海蔵と号した。福建省閩侯の人。光緒8年(1882)郷試に首席で合格、挙人になり、駐日公使館書記官、神戸大阪総領事を経て、重職を歴任した。光緒31年(1905)安徽省広東按擦使に任命されたが辞して上海に海蔵楼を建て、文人、学者らと交遊し文名を知られた。溥儀が紫禁城を追われた1924年以後は、天津の清室内務府弁事処に待講として仕え、その教育に当たった。清朝の復興を念願し、1932年の満州国建国とともに国務総理となった。その書は北魏を学んで、「鄭体」と呼ばれる独特の書風を作り上げたという。
本作は、戴光曾(字:松門)の子・小松が馬古芸、蒋花隐らと「懐松図」を描いた逸話に因むもの。
作品名 | 行書七言絶句詩軸 |
ふりがな | ぎょうしょしちごんぜっくしじく |
作者 | 鄭孝胥 |
国名 | 中国 |
制作年 | 清末~民国 |
寸法 | 146.7×38.3cm |
目録番号 | 4A-2442 |
釈文 | 痩骨凌霜破拘関小松何似老松強 吴渓延令同根否緑柳橋西戴大章 戴松門子小松馬古芸蒋花隠嘗為作懐松図 孝胥 |
鄭孝胥(1860~1938)は、字は蘇龕、太夷など。海蔵と号した。福建省閩侯の人。光緒8年(1882)郷試に首席で合格、挙人になり、駐日公使館書記官、神戸大阪総領事を経て、重職を歴任した。光緒31年(1905)安徽省広東按擦使に任命されたが辞して上海に海蔵楼を建て、文人、学者らと交遊し文名を知られた。溥儀が紫禁城を追われた1924年以後は、天津の清室内務府弁事処に待講として仕え、その教育に当たった。清朝の復興を念願し、1932年の満州国建国とともに国務総理となった。その書は北魏を学んで、「鄭体」と呼ばれる独特の書風を作り上げたという。
本作は、戴光曾(字:松門)の子・小松が馬古芸、蒋花隐らと「懐松図」を描いた逸話に因むもの。