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【展覧会概要】
平安時代から鎌倉時代にかけての彩ゆたかな文化、いわゆる「王朝文化」は、その後の人びとにとって憧憬(あこがれ)の対象であり、現代の私たちにとっても同じものです。観峰館の収蔵品である「観峰コレクション」には、王朝文化の中で登場した文学作品を取り上げた出版物が多くあります。この展覧会では、その中から、「源氏物語」と「百人一首」にテーマを絞り、通常の展覧会ではご覧いただけない作品の数々を、Web上のバーチャル観峰館で展示します。
見どころは、初出品となる伝伏見天皇筆《源氏物語抜書》をはじめ、日本書画コレクションの優品の一つである《新百人一首色紙貼付屏風》、稀少な《源氏物語かるた》など、これまでの展覧会に並ぶ機会の少なかった作品を、多くご覧いただけます。
「蔵出し」された名品の数々を、たっぷりとご堪能ください!
▼出品リストはこちら
令和4年(2022)度・観峰館Web展覧会「蔵出し!源氏物語と百人一首」(本館4階)出品作品リスト
☆こちらのページでは、バーチャル観峰館で公開している「蔵出し!源氏物語と百人一首」の展示作品/解説を、章ごとにまとめて掲載しています(展示番号はバーチャル観峰館と一致しております)。
【目次】
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【関連出版物】
【次回の展覧会】
【作品】
第一章 源氏物語抜書
紫式部が著した「源氏物語」は、王朝文学を代表する作品です。日本最初の「恋愛小説」ともいうべきこの物語は、鎌倉時代以降、江戸時代を通して、憧憬(あこがれ)の眼差しとともに、立場を問わず多くの人びとに享受されました。
No.1 《源氏物語抜書》 伝 伏見天皇(1265~1317) 室町時代
能書家として知られる伏見天皇が書き記した源氏物語本文の抜書の巻子。室町時代(14~15世紀)になると、物語文学の抜書が制作されるようになり、特に伏見天皇筆と伝わるものは多い。同種の作品としては、国立歴史民俗博物館所蔵本、徳川美術館所蔵本、石山寺所蔵本などが知られる。
画像は、第十二帖・須磨の巻で、「ふるさとを/みねのかすみは/へたつれと/なかむるそらは/おなじ雲井か」の和歌を書く。
No.2 《絵入源氏物語》 山本春正(1610~1682) 江戸時代・承応年間(1652~1655)
源氏物語の出版は、江戸時代に入って後、開始された。最初の木版本である無跋無刊記本は、寛永年間(1624~1643)に刊行され、その後、注釈書も相次いで出版された。
京都の蒔絵師である山本春正は、初学者のために絵入本の出版を計画し、慶安3年(1650)と承応3年(1654)に「絵入源氏物語」を出版した。展示の作品は、後者の承応本と呼ばれるものである。
No.3 《源氏物語(桐壺)》 (作者不詳) 江戸中期
源氏物語の出版が開始されると、巷間にも広く読まれるようになるとともに、手習いのテキストとして書写する人物も現れるようになる。
この作品は、全五十四帖の本文を書き写したもので、表紙は金銀砂子で千鳥や波模様を表現した豪華な装丁である。冊子は巻ごとにまとめられ、「若菜」を上下巻とするなど、基本に忠実であるが、「幻」の巻が抜け落ちている。
第二章 紫式部-源氏物語の著者-
紫式部(?~1019?)は、源氏物語の著者であり、また歌人として「百人一首」にその和歌が選ばれた才女として知られています。近江とも関係が深く、石山寺(大津市)にて源氏物語の構想を思いつき、執筆に励んだという伝説があります。
No.4 《百人一首一夕話(五)》 尾崎雅嘉/書 大石真虎/画 天保4年(1833)新刻
百人一首一夕話は、江戸時代に学者である尾崎雅嘉(1755~1827)によって書かれた百人一首の解説書である。当時の町人階級が身につけるべきとされていた教養を、最小限に分かりやすくまとめたもので、その人気ぶりは、大石真虎(1792~1833)が挿絵を描くことで、更に加熱した。
巻の五は、源氏物語の作者・紫式部の幼少期の聡明ぶりを評するほか、源氏物語を物語文学として絶賛している。
No.5 《百人一首 女教草大和錦(全)》 (作者不詳) 明治14年(1881)
百人一首のほか、手紙の案文や作法などを載せる女子用の教養書。冒頭には「子の日の遊びの図」「かるた遊び図」など彩色刷りの挿絵が豊富にある。
冒頭の挿絵のひとつに、紫式部が石山寺にて琵琶湖とともに月を眺める場面がある。石山寺は、式部が源氏物語を起筆した場所として知られている。とすれば、文机の上に広がるのは、源氏物語だろうか。
No.6 《女今川 玉寿百人一首(全)》 (作者不詳) 明治20年(1887)再版?
明治時代に出版された、歌人の挿絵入りの百人一首の読本。同じ内容の「小倉色紙 和歌百人一首」(文化15年・1818初版)が明治20年(1887)に再版されており、その頃に出版されたものであろう。
冒頭の彩色頁に描かれているのは、石山寺の紅葉を愛でる紫式部である。左上には「たれかよに/なからへてみむ/かきとめし/あとはきえせぬ/かたみなれとも」の和歌を書く。
No.7 《栄海百人一首大全》 (作者不詳) 慶応元年(1865)
百人一首を中心に、女文章手引草などの付録が付いた書物である。冒頭には、女中四徳教訓、百人一首の由来を書き、頭書には婚礼式心得次第などがある。その内容の多くが、女性向けに作られた教養書といえよう。
なお出版年は、他館所蔵本を参照し、慶応元年(1865)とした。
No.8 《百人一首 教草(全)》 (作者不詳) 江戸後期
正式な書名は不明であり、管見の限りでは「国書総目録」にも掲載されていない版本である。表紙の墨書「百人一首」と、内題の「教草」を組み合わせたものだが、正式名称ではない。また、初版年も不明である。
その内容は、「教草」とある通り、初等教育用の教材である。百人一首を主としているが、頭書部分には「女教訓さしも草」や「三十六歌仙繍像」「倭こと葉」など、便利な教材も含まれている。
第三章 源氏物語&百人一首かるた
源氏物語や百人一首は、中世以降、教養の書物として多くの人に読まれました。江戸時代になると、多くの版本の登場とともに、娯楽性のある「かるた」が一般にも普及していきます。現在でも、かるたは、お正月の風物詩として知られ、人気の高いものです。
No.9 《源氏物語歌かるた》 (作者不詳) 江戸後期
歌かるたといえば百人一首が代表的だが、本作は、源氏物語五十四帖の巻名と和歌を、典雅な書と挿絵で仕上げたもの。江戸時代には、伊勢物語や源氏物語の歌かるたが多く作られたが、百人一首に比べると現在確認される資料は比較的少なく、稀少な逸品といえよう。
九州産業大学図書館所蔵本(江戸中期頃)と比較すると、サイズは一回り小さく、人物の肖像画はほぼ出てこない。恐らく、その流れを汲むものだろう。
No.10 《小倉百人一首かるた》 (作者不詳) 明治時代
藤原定家の撰した百人の歌人の和歌を、通称「百人一首」と称する。宇都宮蓮生の別荘・小倉山荘の襖の装飾のために作成した色紙を元にし、別の百人一首と区別するために「小倉」と付くこともある。
このかるたは、明治時代に制作されたもの。梅に鶯が描かれた箱も備わる、明治期のスタンダードなかるたである。
No.11 《小倉百人一首かるた》 (作者不詳) 明治中期
明治中期頃、京都の書肆(書店)・吉田勘兵衛の版を元に制作された百人一首。持統天皇の読み札、取り札には、唯一、金銀砂子が散らされている。
吉田の元版とは、文化年間に臨川堂 筆、法橋中和(西村中和) 画による「小倉色紙 百人一首」であろう。この版本は、当館所蔵の「女今川 玉寿百人一首(全)」(N0.6・12)に引き継がれている。
No.12 《女今川 玉寿百人一首(全)》(作者不詳) 明治20年(1887)再版?
明治時代に出版された、歌人の挿絵入りの百人一首の読本。同じ内容の「小倉色紙 和歌百人一首」(文化15年・1818初版)が明治20年(1887)に再版されており、その頃に出版されたものであろう。
この版本を元に制作されたかるたが、「小倉百人一首かるた」(No.11)と思われるが、肖像を描いたのはおそらく別の挿絵師である。
第四章 もうひとつの百人一首-新百人一首-
江戸時代を通して、多くの百人一首が出版されるようになると、百人一首に代わる、新しいバリエーションを求める声も出てきました。そこで登場したのが、「新百人一首」です。足利義尚撰として知られるこの和歌集を題材とした版本は、江戸時代前期よりいくつか出版され、また肉筆の歌仙絵も制作されたようです。その数は、百人一首に遠く及ばないものでしたが、一定の人気を得ていたようです。
No.13 《新百人一首色紙貼付屏風》 (作者不詳) 江戸中期
「新百人一首」は、室町幕府将軍・足利義尚(1473~1489)の撰による私撰和歌集。文明十五年(1483)成立。藤原定家撰の小倉百人一首に漏れた著名な歌人の歌を、勅撰和歌集から百首選定したものである。
江戸時代にいくつかの版本があるように、新百人一首は手習いの手本として使用されていたが、百人一首といえば「小倉百人一首」であり、本作のような「新百人一首」が屏風の題材になることは非常に珍しい。
No.14 《橘千蔭 新百人一首(全)》 加藤千蔭(1753~1808) 享和3年(1803)
橘千蔭こと加藤千蔭の筆により書かれた「新百人一首」で、版本として出版された折帖。歌人の肖像はなく、本文のみ、流麗な仮名で書かれている。
この版本に先行する明暦三年(1657)刊本は、中院通村(1588~1653)が書いたもので、この版本を元に、「新百人一首色紙貼付屏風」が制作されたと考えられる。
No.15 《橘千蔭翁真筆 新百人一首》 加藤千蔭(1753~1808) 明治27年(1894)再版
享和三年に出版された「新百人一首」を、明治二十四年(1891)、東京・博文堂より再版されたもの。所蔵本は、再版にあたる。
折帖ではなく和綴本であること、冒頭に村田春海の跋があるなど、装丁・構成に相違はあるが、ほぼ享和版を踏襲したもの。このような出版の経緯から、「新百人一首」は和歌の読み物として、また習字の手本として、一定の需要があったようである。
第五章 百人一首と歌仙絵
百人一首は、教養書として多くの人びとに読まれていましたが、出版にあたっては、和歌だけではなく、歌人の肖像(歌仙絵)が描かれるようになりました。このことは、読み物としての興味を高めるとともに、挿絵師の活躍の場ともなり、江戸時代には、多くの挿絵師が活躍しました。この活動を元に、絵師として飛躍を遂げた画家も多く存在しています。
No.16 《若鶴百人一首》 石田玉山(?~1812) 文化10年(1813)
「絵本太閤記」の挿絵師として知られる岡田玉山(1737~?)の弟子、石田玉山のベストセラーである。その内容は、小野小町一代物語、女年中用文章・百人一首・女大学など、さまざまな読み物、手習いの手本を収めている。
同種の百人一首には、和歌だけでなく、歌人の肖像が必ずセットになっている。肖像を描く挿絵師の腕ひとつで、その版本の売り上げが変化する訳であり、その意味でも、石田玉山もまた優れた挿絵師といえよう。
No.17 《鶴寿百人一首(全)》 (作者不詳) 弘化年間(1844~1848)頃
この作品は百人一首の和歌と歌人の肖像を載せたもので、頭書には「婦人必読」「婚礼式法」「源氏香の図」などが併載されている。
弘化年間に出版されたと考えられるが、絵師は不明である。
No.18 《永寿百人一首》 (作者不詳) 明治初期?
大阪の書肆(書店)・群玉堂の岡田茂兵衛が出版した、百人一首の書物である。
同じ内容のものは、江戸時代に数多く出版されており、その人気ぶりがうかがえるとともに、未発見の作品もまだまだ多い。
この作品も、管見の限りでは「国書総目録」に記載はなく、明治十八年(1885)、青木嵩山堂による出版の同じ内容の書物が確認される。ただし、明治18年版には、冒頭の五節句の説明書きが省かれている。
No.19 《増 百人一首玉椿(全)》 (作者不詳) 弘化4年(1847)補刻
百人一首の他、女大学(今川になそらへて自をいましむ制詞条々)などを載せる。細目は、表紙に詳しい。
書は、清吟堂・杉邉水谷(生卒年不詳)が筆耕している。江戸時代、「堂」と付く号を持つ筆耕者は、寺子屋師匠として、子弟の教育に当たっていた人物が多い。あるいは、出版者自らが筆を執ることもあった。
なお、表紙に「増」とあり、補刻であることから、元版に増補されたものであろう。
No.20 《千歳百人一首(全)》 (作者不詳) 江戸後期
書名は異なるが、「永寿百人一首」(No.18)と同じ内容で、和歌や挿絵からも分かるように、同じ版木を使用している。「永寿」は群玉堂の出版であることが分かるが、この作品は版元も不明である。
末尾の順徳院に落款があり、「木風翁敬画」と書かれている。
第六章 手習いとしての百人一首
これまでの作品からも分かるように、挿絵だけでなく、和歌の本文もまた、一流の書家が書くことがありました。なぜなら、百人一首は、読み物としてだけではなく、手習いの手本としても利用されていたからです。しかしながら、版本の書を書いた書家たちの多くが、肉筆の「作品」を遺しておらず、あくまで筆耕を専門としたプロフェッショナルたちばかりでした。
No.21 《百人一首》 福平長員(生卒年不詳) 天明4年(1784)
百人一首は、読み物とてだけではなく、手習いの手本としても、利用された。この作品は、肉筆で書かれた百人一首で、手習いの成果として、後に一冊にまとめられたものであろう。
最終頁には「天明四載辰十一月吉日 福平氏長員書 写之」の款記がある。書者の経歴は不詳ながら、江戸中期の肉筆を伝える貴重な資料である。
No.22 《百人一首》 (作者不詳) 万延元年(1860)
折帖に、百人一首やいろは四十七文字が書かれた肉筆の作品。書者については不明であるが、江戸末期の万延元年十一月に書かれたとある。
このような折帖の手本の場合、師匠が一首ごとに弟子に書きあたえ、弟子がその書を習熟すると、次の一首に進むといった手順で利用されることがある。従って、末尾の年号は、一通りの手習いを終えた、その年月を書き記したものかもしれない。
No.23 《東洲先生書百人一首(全)》 平沢旭山(1733~1791) 天明8年(1788)書
京都出身の儒学者である平沢旭山が書いた、百人一首の石摺本。
跋は平沢自身が書いたものを、佳儀堂こと稲垣有儀が書き写している。というのも、天明八年秋頃、平沢は病を患っており、決して十分な書は書けなかったようである。
しかし、同年の夏に書いた本文の和歌には、気迫あふれる力強い書風を見ることができる。
No.24 《百人一首》 巻 菱湖(1777~1843) 天保11年(1841)書
幕末の三筆のひとり、巻 菱湖が書いた百人一首で、江戸時代以降に流行した、折帖・石摺本の装丁である。
菱湖の書は、手習いに適した書風として、その門人は一時、三千人に膨れ上がったという伝説がある。また、菱湖筆の書物も多く出版されている。
この作品は、六十四歳の最晩年に書かれたもので、円熟味を帯びた、どっしりとしつつも流れるような書風である。
No.25 《百人一首》 小野鵞堂(1862~1922) 大正15年(1926)
小野鵞堂は、明治大正から時代を代表する仮名の書家である。斯華会(このはなかい)を起こし、通信教育によって鵞堂流を広めたという。当館の創立者・原田観峰も幼少期、斯華会に所属していたと、後に回顧している。
この作品は、京都の賀茂川のほとり、水清く、風涼しげな頃、明治癸巳(1893)の年、八月上旬に書いたという跋を付す。人びとを魅了する、美しい仮名のお手本である。
第七章 異本百人一首
百人一首は、「百」人の歌人の和歌という、キリの良いまとまりで構成されており、また人気があったことから、江戸時代には、「和歌」と「肖像」とを「百」集めた、いわゆる「異本」の百人一首も多く制作・出版されました。これらの肖像は、当時を代表する浮世絵師が描いており、出版に対する並々ならぬ意欲が感じられます。
No.26 《英雄百人一首》 水谷緑亭/輯 歌川貞秀/ 画 嘉永元年(1848)再版
序文に拠ると、江戸の安寧の世に忘れ去られようとする武士たちの和歌のうち、字数の定まった和歌のみを集め、百名の英雄の和歌と肖像とを集めたもの。
冒頭は、素戔嗚尊(すさのおのみこと)よりはじまり、「新百人一首」を撰した常徳院・足利義尚で結ばれている。聖徳太子をはじめ、室町時代後期頃までの英雄の肖像画と和歌、伝記が書かれている。
No.27 《列女百人一首(全)》 水谷緑亭(1785~1858)輯 弘化4年(1848)
本書もまた水谷緑亭の著書で、百人一首にならい、古より聞こえる貞女列婦百名の肖像と百首の和歌を記した読本である。冒頭の挿絵は、著名な葛飾北斎(1760~1849)が手掛け、人物の肖像は、歌川豊国(1769~1825)が描いた、豪華なメンバーによる書物である。
画像の妓王(右)、仏の前(左)は、ともに「平家物語」に登場する平 清盛(1118~1181)の寵愛を受けた女性たちである。
No.28 《秀雅百人一首》 水谷緑亭(1785~1858)輯 弘化5年(1849)序
百人一首といえば、藤原定家撰「百人一首」であるが、江戸時代には、それに限らず、様ざまな種類の百人一首が出版された。
この作品は、漢学者である関口秋美(金水)(1802~1862)の序文によれば、百人一首が広まるとともに、俗書が多く出版される時代になり、本書もまた、古今の著名人のうち、その詞が残る人物を貴賎を論ぜずまとめたもの、とある。
No.29 《畸人百人一首(全)》 水谷緑亭(1785~1858)輯 嘉永5年(1852)序
奇人たる人物百人の肖像と和歌を載せている。その挿絵は、歌川国芳(一勇斎、1798~1861)や歌川貞秀(玉蘭斎、1807~1879?)など、当時活躍中の浮世絵師たちが手掛けた。
画像(右)は、「寛永の三筆」として知られる本阿弥光悦(1558~1637)の肖像と和歌の部分である。和歌は、「一ふりは らいのたぐひと 思ひしが いま一ふりは めきゝものなり」とある。
No.30 《贈答百人一首(全)》 水谷緑亭(1785~1858)輯 嘉永6年(1853)序
水谷緑亭の序文によると、古今の贈答の和歌と肖像を集めた読本である。 「畸人百人一首」(No.29)と同じ著者、同じ挿絵師による異本の百人一首。
和歌の贈答は、見開きの両名の人物によってなされている。画像は、蜷川親当(新右衛門)と一休宗純との和歌と肖像である。一休の肖像は正面向きの頂相風に描かれており、興味深い。
第八章 女性のための百人一首
江戸時代を通して、日本の識字率は世界に誇るべきものですが、女性に対する教育水準の高さもまた、誇るべきものです。そのことは、江戸時代の版本の中に、女性に向けたものが多く出版されていたことからも裏付けられます。百人一首もまた例外ではありませんが、多くの書物は、百人一首の他、女大学、女今川といった付録が付いた「取り合わせ」本でした。
No.31 《祝言絵抄 嘉例百人一首稚子鑑(全)》 (作者不詳) 文化~文政年間頃
この作品は、内題に「寺子重宝 婚礼百人一首 祝言絵抄」とあるように、女性向けの読本・手習い本である。冒頭は、婚礼の作法ではじまり、当時、女性が身に付けるべきと考えられていた教養の数々が載せられている。
百人一首の部分には、上部は婚礼作法について、下部は百人一首を絵入で記されている。
No.32 《絵入教訓 嘉永百人一首(全)》 (作者不詳) 安政2年(1855)
この作品は、冒頭に女中の挿絵があり、その後、「女中名づけ」「百人一首」と続いていく。
頭書には、「女消息往来」など、女性向けのテキストが多く載せられている。絵師は不明だが、冒頭の屏風に「乙丸画」とあることがヒントになろう。
「嘉永」とあるので、嘉永年間(1848~1854)に出版されたものを、再版したものであろう。
No.33 《百人一首女教小倉色紙(全)》 (作者不詳) 文政12年(1829)再刻
この作品は、書名に「女今川状 百人一首 女手習状 女教小倉色紙」とあり、目録として、多くの付録を載せたものである。
冒頭の挿絵は、「倭国賢女」として、清少納言、紫式部、赤染衛門、伊勢大輔、和泉式部の五名の女性が描かれている。和歌を通しての、人びとの王朝時代への憧れを示しているともいえよう。
No.34 《百人一首女教訓 女教大全姫文庫》 (作者不詳) 江戸後期~明治前期
百人一首を中心に、女性の教養書として読まれた書物。冒頭の挿絵には、小式部内侍の「ちはやふる神のゐがきにあらねどもなみのうへにも鳥居たつなり」の和歌の場面が描かれる。
昔、小式部が住吉の浜で、波の上に鳥がいるのをよめと母和泉式部に言われて、「千早振る」と言ったので、波に「千早振る」とはいかがと人びとはあきれたが、続けてそのまま「千早振る神のゐがきにあらねども波の上にも鳥居立つとは」の名吟があったという。
No.35 《泰平百人一首教鑑(全)》 池田東籬(1788~1857) 慶応元年(1865)板
江戸後期の人気読本作家である池田東籬が著したもの。挿絵は、新見大年・喜多川祭魚による。表紙に「女訓躾方」「女今川入」とあることから、女性のための教訓書を兼ねていた。
この作品の冒頭の色刷の頁には、六歌仙が描かれている。六歌仙は紀貫之が『古今和歌集』の「仮名序」において優れた歌人として挙げた在原業平、小野小町などのこと。現在の私たちの目も惹く色鮮やかな挿絵は、書物の内容を豊かにする効果があった。
【関連出版物】
『観峰館紀要』第14号
本展でご紹介した《新百人一首色紙貼付屏風》に関する論考が掲載されています。
【同時開催】