朱益藩(1861~1937)は、字を艾卿といい、定園と号しました。江蘇省蓮花の人。光緒16年(1890)の進士。翰林院編修などの要職を歴任し、清朝滅亡後も溥儀に仕え、民国5年(1916)には師傅となりました。1937年に北京で病没した際には、溥儀より「清故太保」と追贈され、その書は、早年は碑帖を兼習し、晩年は王羲之(303?~361?)等の伝統的書法を善くし、王羲之と米芾(1051~1107)の精髄を得たと称されました。この作品も、米芾風の力強い筆致で書かれています。(漢字部 資料紹介 2017年2月号)
作品名 | 行書軸 |
ふりがな | ぎょうしょじく |
作者 | 朱益藩 |
国名 | 中国 |
制作年 | 清末~民国 |
寸法 | 122.4×58.1cm |
目録番号 | 4A-2603 |
釈文 | 米元暉眼中関煙雨曾次有邱 壑坆含毫和墨即澄心紙為此図 四明表文清公居館閣時所嘗収蓄 者後為郡人夏外宜家所得叔 宜兄弟争相宝秘毎裏以相誇 雲程仁兄雅属 朱益藩 |
朱益藩(1861~1937)は、字を艾卿といい、定園と号しました。江蘇省蓮花の人。光緒16年(1890)の進士。翰林院編修などの要職を歴任し、清朝滅亡後も溥儀に仕え、民国5年(1916)には師傅となりました。1937年に北京で病没した際には、溥儀より「清故太保」と追贈され、その書は、早年は碑帖を兼習し、晩年は王羲之(303?~361?)等の伝統的書法を善くし、王羲之と米芾(1051~1107)の精髄を得たと称されました。この作品も、米芾風の力強い筆致で書かれています。(漢字部 資料紹介 2017年2月号)