中沢雪城(1808?~1866)は、江戸時代後期の書家。越後(新潟県)長岡藩士。藩校・崇徳館で学び、江戸に出て巻菱湖(1777~1843)に師事。のち塾をひらく。菱湖門四天王のひとり。門下に巌谷一六(1834~1905)、西川春洞(1847~1915)らがいる。
多宝塔碑は、顔真卿(709~785)44歳時の楷書作品。雪城の師・菱湖は若かりし頃、市河米庵(1779~1858)が好んで学んだ顔真卿ではなく、欧陽詢(557~641)を進んで学んだ。顔真卿 は40歳代になってから学び始めたという。雪城がその頃に弟子入りをしたと考えれば、顔真卿の書は師弟を結ぶ思い出である。本書は、そのような師への追慕の意味を込めた臨書であろう。
作品名 | 臨書帖 多宝塔碑 |
ふりがな | りんしょじょう たほうとうひ |
作者 | 中沢雪城 |
国名 | 日本 |
制作年 | 江戸時代後期 嘉永2年(1849) |
寸法 | 29.8×17.4cm |
目録番号 | 書冊-B-011 |
釈文 | 大唐西京千福寺多宝仏塔感応碑文… |
中沢雪城(1808?~1866)は、江戸時代後期の書家。越後(新潟県)長岡藩士。藩校・崇徳館で学び、江戸に出て巻菱湖(1777~1843)に師事。のち塾をひらく。菱湖門四天王のひとり。門下に巌谷一六(1834~1905)、西川春洞(1847~1915)らがいる。
多宝塔碑は、顔真卿(709~785)44歳時の楷書作品。雪城の師・菱湖は若かりし頃、市河米庵(1779~1858)が好んで学んだ顔真卿ではなく、欧陽詢(557~641)を進んで学んだ。顔真卿 は40歳代になってから学び始めたという。雪城がその頃に弟子入りをしたと考えれば、顔真卿の書は師弟を結ぶ思い出である。本書は、そのような師への追慕の意味を込めた臨書であろう。