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【はじめに】
近代中国の画家・銭慧安(せんけいあん)(1833~1911)は、上海で活躍したいわゆる「海上派(かいじょうは)」を代表する画家です。宣統元年(1909)、呉昌碩(ごしょうせき)等とともに、慈善団体である「上海豫園書画善会」を創立し、初代会長に選ばれ、様々な芸術家との交流によって民国時代の書画壇の礎を築きました。
観峰館では、2011年に「没後百年 銭慧安」展を開催しましたが、その後の10年間でも、調査研究の成果が進み、銭慧安の次男・銭禄新(せんろくしん)をはじめ、関係のある書画家の作品も発見されています。
本展は、2021年に没後110年を迎える銭慧安と彼を取り巻く書画家の展覧会です。
観峰館Web展覧会「没後110年 銭慧安展」出品作品リスト
観峰館所蔵 銭慧安作品リスト
【第1章】銭慧安
初名は貴昌、字は吉生、後に号の慧安を名とし、清谿樵子と号した。また画室を双管楼といい、双管楼主とも号した。清谿樵子は若い頃より使用しているが、画室の双管楼が款記に記されるようになるのは、五十歳代半ば以降と考えられる。江蘇宝山(現;上海市)出身で、海上派の画家の中では数少ない上海出身者である。
若かりし頃より画を好み、清朝後期の美人画家の代表的存在である改琦・費丹旭らを学び、人物画・仕女画をよく描いた。二十歳頃より頭角を表し、光緒・宣統年間(1875~1911)に、倪田・宋石年・鄧啓昌・舒浩らと上海で売画生活を送った。また光緒年間頃、天津楊柳青に行って年画制作に関わったといわれる。故事画、詩情画、民間風俗画、神話伝説画、吉祥画、仕女画など様々な種類の絵を描き人気を博したが、晩年は筆が硬くなって、衣紋を鋭い岩のように角ばって描くようになったといわれる。
宣統元年(1909)、呉昌碩、楊逸、高邕、蒲華らとともに、上海豫園得月楼で豫園書画善会を創立、初代会長に選ばれる。様々な芸術家との交流は民国期の画壇の礎を築くとともに、自身も1911年に没する間際まで精力的に作品を描き続けている。著書には『清谿画譜』などがある。
観峰館所蔵作品の中で最も若い時期の作品で、銭慧安44歳時のもの。「補図」とあるため、元々は前後に別場面があったのかもしれない。
銭慧安60歳時の作品。「虎渓三笑(こけいさんしょう)」とは、「盧山記」を出典とする故事で、儒、仏、道の三賢者が一同に合して話をしたところ、お互いにつきない興味を感じ、すっかり夢中になってしまった、転じて、一つの事に夢中になって他のことを忘れてしまうこと、です。「虎渓」とは中国江西省の廬山東林寺の前の渓谷のことだが、絵画の画題においては、しばしば「虎」として表現されることがある。
この作品は、光緒21年(1895)冬、63歳時に、彼の画室・雙管樓にて描かれた作品。羅浮山(広東省増城東)に遊んだ男が、美女と出会い、酒を酌み交わして語る中に眠ってしまい、目覚めると梅があるのみだったという、隋代の故事に因む。作風は華嵒に倣うというが、人物・建物などの描き方には、彼独特の表現様式が見られる。
桃源は陶淵明の「桃花源記」の桃源郷をさす。晋代、彼の漁郎・王道真が桃の花が流れる源に、秦の悪政を避けて暮らす人びとが暦も知らず、自適に晴耕雨読する桃源郷を尋ね得たが、再び太守らを伴って尋ねたところ、道を失い至ることが出来なかった理想郷である。漁夫は文人の理想とした隠逸の世界を代表するものであり、文人画の題材として好んで描かれた。本作品の構図によく似た作品に江蘇省美術館蔵「桃花源図」(光緒30年・1904作)がある。本図はこれと近い時期に描かれたのかもしれない。
銭慧安最晩年77歳時の作品。唐の詩人朱慶餘の七言絶句「宮詞」の一節を引用する。鸚鵡は人の言葉を真似るのが巧みなことから、「言鳥」の異名を持つ。また唐の玄宗が時 を忘れて楽しんだことから「時楽鳥」の名がついた。杜甫や李白もまた鸚鵡を題材とした詩を読んでおり、人びとの身近な存在であった。詩文の内容は、鸚鵡は人の言語を真似るため、宮中のことは不用意に述べることはできない、というもの。
押し慣れた筈の「呉越王孫」の印が転倒していることから、工房作の可能性もある。
【第2章】銭慧安画風の継承者-沈心海と銭禄新-
沈心海(1855~1941) 銭慧安入室の弟子で、その書斎を双桂廔という。絵画は花卉、山水、人物ともに善くし、もっとも美人画を得意とした。上海豫園書画善会会長、宛米山房書画会会長を務めた。
「預兆年豊(よちょうねんほう)」は「瑞雪豊年(ずいせつほうねん)」ともいう。中国では、時節通りに降る雪は、豊年の前兆とされる。雪の寒さが害虫を退治し、雪解けにより水が豊富になることから、その年は豊作になりやすかったのである。
銭禄新(生卒年不詳) 銭慧安の次男。書斎名を玩月軒という。民国時代初期に上海に寓居し、画業で生計を立てる。その画風はよく父に似ているという。
「当罏売酒」とは、『漢書』司馬相如伝にある、司馬相如(しばそうじょ)と卓文君(たくぶんくん)の物語。その内容は、詩文の才があり、琴の名手として梁の孝王に仕えていた司馬相如が、大富豪の卓王孫の娘・卓文君と身分違いの恋に落ち、二人は駆け落ちをする。卓王孫は激怒し、二人の結婚を認めようとしなかった。
やがて、卓文君は自らの財産を投げ打って、二人の生活のために酒場を開く。気立ても良く才色兼備であった卓文君が店を切盛りし、相如も懸命に働いたため、二人の酒屋は街中の評判となり、店は大いに賑わった。
初めは娘を許すつもりのなかった卓王孫も、周りの勧めを断りきれず、二人に多くの使用人と金を送って立派な嫁入り道具を準備し、相如を婿として受け入れる。こうして二人は晴れて夫婦となり、富裕な生活を送ることになった。その後、詩文の才能を聞き付けた武帝によって、相如は再び皇帝に仕えることとなる。
「元章拝石(げんしょうはいせき)」とは、元章こと宋代の著名書家・米芾(べいふつ)(1051~1107)の著名な故事。米芾は、元来、奇怪な言動で知られていたが、彼が役人として役所に赴任した際に、庭の巨大な奇石を目にすると大いに喜び、礼装である袍笏(ほうしゃく)を身に着けて拝んだと逸話が残されている。
【第3章】銭慧安を取り巻く画家
顧譲(1857~1931) 字を吉安(庵)といい、その号を青山樵子という。江蘇省揚州の出身。蓮渓の弟子で、銭慧安は師であり友であった。山水、人物、花鳥のいずれも得意とし、人物画においては、高崟、李野、陳康侯と並んで揚州人物画四家と称された。
「東方朔(とうほうさく)」とは漢代の人物で、西王母の桃を盗んで長寿を得たという伝説がある。長寿を象徴する吉祥画。
朱良材(生卒年不詳) 江蘇省呉県の出身。銭慧安の弟子。上海で売画生活を送り、当時、上海随一の名家と称された。
「子猷愛竹(しゆうあいちく)」とは、王羲之の第五子である王徽之が竹を好んだという故事に因む。
施楨(1875~1946) 銭慧安の弟子で、後に銭派を棄て自ら一派を成した画家。人物画を得意とし、仕女図や花卉図を描いた。
「竹林七賢(ちくりんしちけん)」とは、3世紀後半頃、中国・晋の時代に、俗世間をさけて山中に隠遁し、礼節を捨てて竹林に会し、清談に明け暮れたといわれる隠士七人の
総称。阮籍(げんせき)・嵆康(けいこう)・山濤(さんとう)・向秀(しょうしゅう)・劉伶(りゅうれい)・阮咸(げんかん)・王戎(おうじゅう)のこと。
上記の7人は、老荘思想の影響を受けて、礼教を軽んじ、世俗に背を向けて、竹林で思うがままの生活を送っていたという。後世、賢者の集団として、生き方の理想像としてとらえられるようになった。
【第4章】銭慧安「画風」の影響
黄淡如(1867~1923) 家塾を開いて生計を立てながら、書画を得意とし、また医道に詳しかった。銭慧安との関係は不詳も、同じく上海で人気を博した程璋(1869~1938)との合作作品がある。
疫病を追い払う鍾馗が枝に実を付けた石榴(ざくろ)(多子)を持ち、頭上には多くの蝙蝠(多福)が飛び交っている。蝙蝠を程璋が描き、鍾馗を黄淡如が描く。落款にある「競渡龍舟之日」とは、端午の節句に由来する祭祀行事であり、日本では長崎県の「ペーロン祭」などに見られる競漕行事である。従って、端午の節句、すなわち子どもの誕生・成長を願って描かれたもの。
沈嘯梅(1875-1949) 字を光初、痩鶴老人などと号した。浙江省寧波出身。若い頃は銭慧安に私淑し、上海に居を構えてからは任伯年に師事し、入室の弟子となった。また呉昌碩や蒲華とも交流があった。
林子衡(生卒年不詳) 上海で銭慧安に学び、山水画を得意とした。
☆所蔵する銭慧安作品については、下記のページをご覧ください。通信販売(要送料)にて購入できます。
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