篆書八言対聯

てんしょはちごんついれん
     

以前、其の⑪では「蠟箋(ろうせん)」という紙についてお話ししました。今回は「蠟箋」に意味があるのではなく、篆書でおめでたい言葉を書いた掛軸(対聯)が飾り物として、書斎を飾る文房具と並列であるということがテーマです。書が鑑賞を目的として書かれることが多くなるのは11 世紀の宋時代以降です。文房具や調度品にも芸術性を求め、芸術作品が持つ精神性の高さに価値を認め、その価値を理解するものが文人であると認識され始めたのが、宋時代ころからだと言えるでしょう。書作品が本格的に装飾品として需要が広まるのは、商工業や流通の発展から財を成した、江南の富裕層が台頭する明時代から清時代にかけてです。特に清時代後半には前出の蠟箋や対聯など装飾性の高い技法や形式が流行し、考証学から発展した金石学の興隆により、隷書や篆書という古い書体が作品に多く用いられるようになります。元来中国の人々は、自分が生きているこの時代に幸福を掴みたいと願う気持ちが強く、常日頃から幸福を引き寄せるアイテムを身近に置くことを好みます。骨董品は人の手を渡って長く伝世した品物ですから、その生命力に計り知れない魅力を感じるのです。今回ご紹介する作品は篆書で書かれています。単に書体として用いたということではなく、古代の青銅器に用いられて現在もなお命脈を保つ生命力の長い書体は、即ち長寿につながるという意味があります。また、書かれた詩句の釈文は

甘 醴 自 生 嘉 禾 自 献

騶 虞 来 集 鳳 皇 来 儀

“甘醴(甘き泉水)は自ら生じ(涌き)、嘉禾(めでたき穀物)は自ら献ずるごとく実る。騶虞(伝説の瑞獣は来たりて集い、鳳皇(鳳凰)は来たりて儀す(意義をただしたポーズを取ること)”で、これらが出現することは、いずれも盛徳太平の世の瑞兆を表していて、この上なく目出度い調度品といえます。書の作者である呉大澂(ごだいちょう)は、晩年は愙斎(かくさい)と号しました。蘇州の出身で、同治7年(1869)の進士。清時代末を代表する金石学者です。全く狂いの無い篆書は学識と気品を感じさせます。
(教師月報6月号)

 

                                               
作品名篆書八言対聯
ふりがなてんしょはちごんついれん
作者呉大澂
国名中国
制作年清時代後期
寸法各168.5×38.0cm
目録番号4A-0153
釈文甘醴自生嘉禾自献 騶虞来集鳳皇来儀 愙齋呉大澂

以前、其の⑪では「蠟箋(ろうせん)」という紙についてお話ししました。今回は「蠟箋」に意味があるのではなく、篆書でおめでたい言葉を書いた掛軸(対聯)が飾り物として、書斎を飾る文房具と並列であるということがテーマです。書が鑑賞を目的として書かれることが多くなるのは11 世紀の宋時代以降です。文房具や調度品にも芸術性を求め、芸術作品が持つ精神性の高さに価値を認め、その価値を理解するものが文人であると認識され始めたのが、宋時代ころからだと言えるでしょう。書作品が本格的に装飾品として需要が広まるのは、商工業や流通の発展から財を成した、江南の富裕層が台頭する明時代から清時代にかけてです。特に清時代後半には前出の蠟箋や対聯など装飾性の高い技法や形式が流行し、考証学から発展した金石学の興隆により、隷書や篆書という古い書体が作品に多く用いられるようになります。元来中国の人々は、自分が生きているこの時代に幸福を掴みたいと願う気持ちが強く、常日頃から幸福を引き寄せるアイテムを身近に置くことを好みます。骨董品は人の手を渡って長く伝世した品物ですから、その生命力に計り知れない魅力を感じるのです。今回ご紹介する作品は篆書で書かれています。単に書体として用いたということではなく、古代の青銅器に用いられて現在もなお命脈を保つ生命力の長い書体は、即ち長寿につながるという意味があります。また、書かれた詩句の釈文は

甘 醴 自 生 嘉 禾 自 献

騶 虞 来 集 鳳 皇 来 儀

“甘醴(甘き泉水)は自ら生じ(涌き)、嘉禾(めでたき穀物)は自ら献ずるごとく実る。騶虞(伝説の瑞獣は来たりて集い、鳳皇(鳳凰)は来たりて儀す(意義をただしたポーズを取ること)”で、これらが出現することは、いずれも盛徳太平の世の瑞兆を表していて、この上なく目出度い調度品といえます。書の作者である呉大澂(ごだいちょう)は、晩年は愙斎(かくさい)と号しました。蘇州の出身で、同治7年(1869)の進士。清時代末を代表する金石学者です。全く狂いの無い篆書は学識と気品を感じさせます。
(教師月報6月号)

 

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