本作は、清時代中期の金石学者・銭坫(1744~1806)の「読書賕是」です。銭坫は字を獻之、十蘭と号しました。彼は晩年右手が不自由となり左手で書を書きました。本作の落款印は「崇〓以左手作書」印を用いています。これは晩年1804年の作です。銭坫はたいへんな勉強家で、叔父にあたる大学者の銭大昕(1728~1804)の影響もあり、古代の文字の語意を解釈する訓詁学や文字学、地理学に精しく、特に金石碑版の学問に精通していました。書はこの作品のように、小篆を制定したとされる李斯(秦時代 ?~前210)や唐時代に篆書を復活させた李陽冰(?~?)の書風を継承したものが多く、力強さには掛けますが、古典的な篆書を書作品として著し、古典を研究する考証学の隆盛への機運を高めたといえます。彼の同世代に、後に碑学派の開祖といわれる鄧石如(1743~1805)がいますが、銭坫は個性的な彼の隷書を「文字学から外れた無学の書」と痛罵しました。(漢字部 資料紹介 2018年7月号)
作品名 | 篆書横披 |
ふりがな | てんしょおうひ |
作者 | 銭坫 |
国名 | 中国 |
制作年 | 清時代後期 嘉慶9年(1804) |
寸法 | 27.6×115.5cm |
目録番号 | 4A-5037 |
釈文 | 読書賕是 嘉慶甲子八月 書於不読非聖書堂 |
本作は、清時代中期の金石学者・銭坫(1744~1806)の「読書賕是」です。銭坫は字を獻之、十蘭と号しました。彼は晩年右手が不自由となり左手で書を書きました。本作の落款印は「崇〓以左手作書」印を用いています。これは晩年1804年の作です。銭坫はたいへんな勉強家で、叔父にあたる大学者の銭大昕(1728~1804)の影響もあり、古代の文字の語意を解釈する訓詁学や文字学、地理学に精しく、特に金石碑版の学問に精通していました。書はこの作品のように、小篆を制定したとされる李斯(秦時代 ?~前210)や唐時代に篆書を復活させた李陽冰(?~?)の書風を継承したものが多く、力強さには掛けますが、古典的な篆書を書作品として著し、古典を研究する考証学の隆盛への機運を高めたといえます。彼の同世代に、後に碑学派の開祖といわれる鄧石如(1743~1805)がいますが、銭坫は個性的な彼の隷書を「文字学から外れた無学の書」と痛罵しました。(漢字部 資料紹介 2018年7月号)