王羲之「十七帖」の臨書の墨帖であるこの作品は、杉戸の儒医であった山口玄亭(士章)の娘・瑗が若干16歳にして臨書したものである。この墨帖には三種の跋があり、瑗の弟にあたる山口 直(忠卿)、花亭(姓は不詳、「睲翁」印章)、そして大山融斎(1794~1863、名は誠)が、それぞれ瑗が亡くなった天保8年(1837)に遺したものである。それに拠ると、瑗は幼くして才女であり、経史に通じ、書も善くしたという。北総杉戸にて宿を営んだ喜多村氏に嫁いだ後も、夫の理解を得て多くの臨書を揮亳し、その書を求める者も多かったという。瑗が天保8年2月に病で亡くなった際には、千数百本と書いた書は全て人の手に渡っており、唯一、この16歳時の書が見付かり、その死を悼んで喜多村氏が摸刻し、墨帖として出版した、とある。
本作は、一人の女性の生きた証を、関係する人びとの助力によって形となった名品といえよう。
作品名 | 臨十七帖 |
ふりがな | りんじゅうしちじょう |
作者 | 山口瑗 |
国名 | 日本 |
制作年 | 文化8年(1812) |
目録番号 | 帖ー単ー051 |
王羲之「十七帖」の臨書の墨帖であるこの作品は、杉戸の儒医であった山口玄亭(士章)の娘・瑗が若干16歳にして臨書したものである。この墨帖には三種の跋があり、瑗の弟にあたる山口 直(忠卿)、花亭(姓は不詳、「睲翁」印章)、そして大山融斎(1794~1863、名は誠)が、それぞれ瑗が亡くなった天保8年(1837)に遺したものである。それに拠ると、瑗は幼くして才女であり、経史に通じ、書も善くしたという。北総杉戸にて宿を営んだ喜多村氏に嫁いだ後も、夫の理解を得て多くの臨書を揮亳し、その書を求める者も多かったという。瑗が天保8年2月に病で亡くなった際には、千数百本と書いた書は全て人の手に渡っており、唯一、この16歳時の書が見付かり、その死を悼んで喜多村氏が摸刻し、墨帖として出版した、とある。
本作は、一人の女性の生きた証を、関係する人びとの助力によって形となった名品といえよう。