本作は、顔真卿(709~785)の《多宝塔碑》を臨書したものです。
《多宝塔碑》は唐時代の高僧・楚金(698~759)の徳行と、千福寺の境内に多宝塔を建立した功績を述べた文を刻した石碑です。現在、西安碑林博物館に安置されています。
顔真卿は唐時代(618~907)の玄宗皇帝(685~762)に仕えた政治家で、特に安史の乱(755〜763)で反乱軍をおさえて大功を挙げたことで有名です。
安史の乱で義勇軍を率いて奮戦したことから武人のイメージが強い人物ですが、彼はもともと文官(軍事以外の行政事務を取り扱う官吏)でした。また、代々学者・能書家を輩出した名家の出身でもあり、学問的素養の高い人物でもありました。
書の歴史においては、唐時代に流行した王羲之(303?~361?)の書風とは異なる、独特の書風を確立した人物として取り上げられています。その書は特に宋時代(960~1279)において高く評価され、手本として学ばれることになっていきました。
顔真卿の作品は多く伝わっていますが、その中でも《多宝塔碑》は、開元29年(741)の《王琳墓誌》と天宝8年(749)の《郭虚己墓誌銘》に次ぐ時期に書かれた、比較的早期の作品です。
伊立勲による臨書作品を見ると、起筆や転折で筆を強くおさえる筆法が用いられています。これらのことから、作者が顔真卿の書法をよく学んでいることが分かります。
作者の伊立勲は字を峻斎といい、福建寧化の人です。清時代末期に江蘇省・無錫の知県(知事)になった人物です。中華民国以後は上海で書家として活躍しました。清時代中期の書家・伊秉綬(1754~1815)の後裔です。
作品名 | 楷書臨多宝塔碑軸 |
ふりがな | かいしょりんたほうとうひじく |
作者 | 伊立勲 |
国名 | 中国 |
制作年 | 民国23年(1934) |
寸法 | 126.5×21.4cm |
目録番号 | 4A-4100 |
釈文 | 尔其為状也則岳聳蓮披云垂盖偃下欻崛以踊地 上亭盈而媚空中晻晻其静深旁赫赫以弘敞碝磩承 陛琅玕綷檻玉瑱居楹銀黄拂戸 甲戌孟夏臨多宝塔碑 峻斎伊立勲勲時年七十有九 |
本作は、顔真卿(709~785)の《多宝塔碑》を臨書したものです。
《多宝塔碑》は唐時代の高僧・楚金(698~759)の徳行と、千福寺の境内に多宝塔を建立した功績を述べた文を刻した石碑です。現在、西安碑林博物館に安置されています。
顔真卿は唐時代(618~907)の玄宗皇帝(685~762)に仕えた政治家で、特に安史の乱(755〜763)で反乱軍をおさえて大功を挙げたことで有名です。
安史の乱で義勇軍を率いて奮戦したことから武人のイメージが強い人物ですが、彼はもともと文官(軍事以外の行政事務を取り扱う官吏)でした。また、代々学者・能書家を輩出した名家の出身でもあり、学問的素養の高い人物でもありました。
書の歴史においては、唐時代に流行した王羲之(303?~361?)の書風とは異なる、独特の書風を確立した人物として取り上げられています。その書は特に宋時代(960~1279)において高く評価され、手本として学ばれることになっていきました。
顔真卿の作品は多く伝わっていますが、その中でも《多宝塔碑》は、開元29年(741)の《王琳墓誌》と天宝8年(749)の《郭虚己墓誌銘》に次ぐ時期に書かれた、比較的早期の作品です。
伊立勲による臨書作品を見ると、起筆や転折で筆を強くおさえる筆法が用いられています。これらのことから、作者が顔真卿の書法をよく学んでいることが分かります。
作者の伊立勲は字を峻斎といい、福建寧化の人です。清時代末期に江蘇省・無錫の知県(知事)になった人物です。中華民国以後は上海で書家として活躍しました。清時代中期の書家・伊秉綬(1754~1815)の後裔です。