高邕(1850~1921)字は邕之、苦李・聾公・赤岸山民と号した。杭州(浙江省)の人。上海に寓した。書法に長じ、唐の李邕(北海)を深く慕い、李盦 とも号した。晩年は鄭燮や李瑞清を学び、結体は「瘞鶴銘」を範とした。宣統元年(1909)、上海の豫園に書画善会を催し、呉昌碩らと協力して運営した。 辛亥革命後は、黄冠儒服して売字生活に終始した。山水画、篆刻も能くした。
本作は李邕の代表作の臨書。民国2年(1913)64歳の作。
高邕(1850~1921)字は邕之、苦李・聾公・赤岸山民と号した。杭州(浙江省)の人。上海に寓した。書法に長じ、唐の李邕(北海)を深く慕い、李盦 とも号した。晩年は鄭燮や李瑞清を学び、結体は「瘞鶴銘」を範とした。宣統元年(1909)、上海の豫園に書画善会を催し、呉昌碩らと協力して運営した。 辛亥革命後は、黄冠儒服して売字生活に終始した。山水画、篆刻も能くした。
本作は李邕の代表作の臨書。民国2年(1913)64歳の作。
作品名 | 行書臨李思訓碑軸 |
ふりがな | ぎょうしょりんりしくんひじく |
作者 | 高邕 |
国名 | 中国 |
制作年 | 民国2年(1913) |
寸法 | 176.0×47.1cm |
目録番号 | 4A-0924 |
釈文 | 睪子替禹甘生相秦莫可得而聞已十有四補 崇文生挙経明行修科甲明年吏曹以文翰擢 朝散大夫満歲除常州司倉参軍事出納之恡 鼎湖龍官欲近関而出罔知所従 桂蓀仁兄大雅属臨李思訓残碑癸丑高邕記 |
高邕(1850~1921)字は邕之、苦李・聾公・赤岸山民と号した。杭州(浙江省)の人。上海に寓した。書法に長じ、唐の李邕(北海)を深く慕い、李盦 とも号した。晩年は鄭燮や李瑞清を学び、結体は「瘞鶴銘」を範とした。宣統元年(1909)、上海の豫園に書画善会を催し、呉昌碩らと協力して運営した。 辛亥革命後は、黄冠儒服して売字生活に終始した。山水画、篆刻も能くした。
本作は李邕の代表作の臨書。民国2年(1913)64歳の作。