痤鶴銘は、南朝・梁の武帝の時代、陶弘景(456~536)が書いたという説が有力ですが、書者と刻年には諸説があります。江蘇鎮江の焦山西麓にあった摩崖石刻ですが、宋時代に落雷にあって、河に崩落し五つに分かれました。その後清時代に引き上げられ壁に埋め込まれています。まだ残石が河中にあるとされています。書法は自由で大らかな、線は逞しく楷書の書きぶりの中に、行書の筆遣いがあり、後の書家に大いに影響を及ぼした作品です。今回は、清末の高邕(1850~1921)の臨書です。彼は痤鶴銘から結体を学んだといい、自然に書くと痤鶴銘の文字になるほどです。飾り気のない伸びやかな線が特徴です。
作品名 | 楷書臨焦山瘞鶴銘廿五字軸 |
ふりがな | かいしょりんしょうざんえいかくめいにじゅうごじじく |
作者 | 高邕 |
国名 | 中国 |
制作年 | 清時代末期 光緒22年(1896) |
寸法 | 131.2×32.2cm |
目録番号 | 4A-3755 |
痤鶴銘は、南朝・梁の武帝の時代、陶弘景(456~536)が書いたという説が有力ですが、書者と刻年には諸説があります。江蘇鎮江の焦山西麓にあった摩崖石刻ですが、宋時代に落雷にあって、河に崩落し五つに分かれました。その後清時代に引き上げられ壁に埋め込まれています。まだ残石が河中にあるとされています。書法は自由で大らかな、線は逞しく楷書の書きぶりの中に、行書の筆遣いがあり、後の書家に大いに影響を及ぼした作品です。今回は、清末の高邕(1850~1921)の臨書です。彼は痤鶴銘から結体を学んだといい、自然に書くと痤鶴銘の文字になるほどです。飾り気のない伸びやかな線が特徴です。