蘇武(前140?~60)と李陵(?~74)はともに漢の武帝に仕えた人物です。蘇武は使者として北方の匈奴に行き、そのまま身柄を十九年間も拘束されましたが、最後まで降伏しませんでした。そのため北海(バイカル湖)の畔で遊牧生活を強いられていました。一方の李陵は、将軍として匈奴と奮戦しましたが、不運にも捕虜となってしまいました。最初降伏を拒否していましたが、家族が李陵の降伏を知った武帝に殺されたことにより匈奴に仕えるようになり、蘇武の説得役を引き受けました。両者は旧知の間柄でありながら、一方はあくまで漢の忠臣として、もう一方は匈奴の使者として異郷で再会します。しかし、蘇部が李陵の申し出を受けることはなく、両者は訣別します。その後、漢と匈奴は親和に転じ、蘇武は帰国を許されましたが、匈奴に降ってしまった李陵には帰る国はなく、異郷で生涯を閉じました。この二人の故事は、中島敦(1909~1942)の小説「李陵」にも取り上げられています。
	 
				         
			     
			    
			    			    
					
							    
			    			    				    	
		
	 
        | 作品名 | 蘇武李陵図 | 
        
        
| ふりがな | そぶりりょうず | 
      
        
| 作者 | 謝銘 | 
      
      
        
| 国名 | 中国 | 
      
         
| 制作年 | 清時代後期 咸豊7年(1857) | 
      
        
| 寸法 | 148.6×83.6cm | 
      
        
| 目録番号 | 4a-0901 | 
      
        
| 釈文 | 歳在彊圉大荒落初夏三月 王鼎謝銘写 | 
      
 
蘇武(前140?~60)と李陵(?~74)はともに漢の武帝に仕えた人物です。蘇武は使者として北方の匈奴に行き、そのまま身柄を十九年間も拘束されましたが、最後まで降伏しませんでした。そのため北海(バイカル湖)の畔で遊牧生活を強いられていました。一方の李陵は、将軍として匈奴と奮戦しましたが、不運にも捕虜となってしまいました。最初降伏を拒否していましたが、家族が李陵の降伏を知った武帝に殺されたことにより匈奴に仕えるようになり、蘇武の説得役を引き受けました。両者は旧知の間柄でありながら、一方はあくまで漢の忠臣として、もう一方は匈奴の使者として異郷で再会します。しかし、蘇部が李陵の申し出を受けることはなく、両者は訣別します。その後、漢と匈奴は親和に転じ、蘇武は帰国を許されましたが、匈奴に降ってしまった李陵には帰る国はなく、異郷で生涯を閉じました。この二人の故事は、中島敦(1909~1942)の小説「李陵」にも取り上げられています。