陳鴻寿(1768~1822)、字は子恭、曼生と号しました。浙江銭塘の人。嘉慶6年(1801)の抜貢生。官は維安同知(維安県の副知事)。文書、詩文に優れ書画にも巧みで、篆刻は丁敬(1695~1765)・黄易(1744~1802)を範とし、西泠四家を継承しました。陳豫鍾(1762~1806)とは20年もの交流がありました。また摩崖の碑叛を酷好し、その書は独特の姿態をそなえています。江蘇溧陽県の知事であったとき、隣接する宜興県は茶器の砂壺の生産地でしたが、その意匠を18種類考案し、自ら銘文を彫りつけ、これが「曼生壺」として珍重されたことは有名です。
篆刻は著に『桑連理館詩集』、印譜に『種楡仙館印譜』があって世間に通行しています。
作品名 | 行書軸 |
ふりがな | ぎょうしょじく |
作者 | 陳鴻寿 |
国名 | 中国 |
制作年 | 清時代中期 |
寸法 | 99.7×34.2cm |
目録番号 | 4A-1337 |
釈文 | 昨日承蔬筍不托々供〓清〓永日也別後与元〓〓陽携 琴過普渡精舎相与〓礴林影水〓中而令子来妃知〓者〓 〓〓野橋急遣一介則従者〓〓已返其経宿不面旦 来雷雨大作想惟〓静軽安昨見尊俎間悲芥萵菜之属 秀色粲然今日得雨必是苗薬怒長更隹也况蒙許送久〓不見至 戯作小詩促之 陳鴻寿書 |
陳鴻寿(1768~1822)、字は子恭、曼生と号しました。浙江銭塘の人。嘉慶6年(1801)の抜貢生。官は維安同知(維安県の副知事)。文書、詩文に優れ書画にも巧みで、篆刻は丁敬(1695~1765)・黄易(1744~1802)を範とし、西泠四家を継承しました。陳豫鍾(1762~1806)とは20年もの交流がありました。また摩崖の碑叛を酷好し、その書は独特の姿態をそなえています。江蘇溧陽県の知事であったとき、隣接する宜興県は茶器の砂壺の生産地でしたが、その意匠を18種類考案し、自ら銘文を彫りつけ、これが「曼生壺」として珍重されたことは有名です。
篆刻は著に『桑連理館詩集』、印譜に『種楡仙館印譜』があって世間に通行しています。