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【展覧会概要】|【第1章】楊峴|【第2章】徹底した臨書姿勢|【第3章】苦難に満ちた人生|【第4章】独特の個性|【同時開催】|【次回のWeb展覧会】
【展覧会概要】
このWeb展覧会は、観峰館が収蔵する楊峴(ようけん 1819~1896)の作品10点を画像で紹介する企画です。
楊峴は、中国・清時代中期の人で、隷書の達人として知られています。「あらゆる漢碑を学んだ」とされる楊峴ですが、とくに「礼器碑」を学んだようです。晩年は独特のうねりのある書法を編み出し、多くの人を惹きつけました。
紹介する10点のうち2点は漢碑の臨書作品です。制作年代は楊峴が65歳前後から78歳で没する2年前までの、壮年から晩年期の20年間に書かれた作品です。
画像での鑑賞ですから、実作の迫力は感じていただけませんが、彼の魅力の一端に触れていただければ幸いです。
※本ページの画像をクリックすると拡大してご覧いただけます。
【第1章】
楊峴
楊峴は、字は見山(けんざん)、季仇(ききゅう)、庸齋(ようさい)、藐翁(ばくおう)、晩年には遅鴻残叟(ちこうざんそう)と号しました。浙江省帰安の人。清・咸豊五年(1855)の挙人。官は松江知府に至りますが、上官と合わずに退官し、以降は書を売って自給します。詩作の門下には呉昌碩(1844〜1927)がいます。その書は清奇で、行草書にも独特の味わいがあると評されますが、とくに「礼器碑」を学んで漢隷に最もすぐれたとされます。清末の碑学の名家にあげられ、著作に『遅鴻軒詩棄・文棄』があります。
「隷書臨武梁祠軸」
清時代後期
129.2×30.8㎝
[釈文]
木連理王者徳純洽八方為一家則
連理生璧流離王者不隠過則至比
目魚王者明無不衙則至 武梁祠
[印]
楊峴信印(白文)16×16mm
季仇(朱文)16×16mm
[解説]
嘉祥武梁祠は、山東省嘉祥県にある。武梁祠東漢の芸術家を祀った祠です。
おそらく、50歳代後半頃の作品です。素朴な線に見えますが、抑揚のない線刻文字を、線に太細をつけることで、温かみのある表情にしています。文字の大小、字間に変化をつけることで、石刻らしい自然な素朴さを演出しています。
「隷書臨西狭頌五瑞図題記軸」
清時代後期
128.8×30.9㎝
[釈文]
君昔在黽池脩崤嶔之道徳治精
通致黄龍白鹿木連瑞理之瑞故
図画其像 西狭頌
[印]
楊峴信印(朱文)16×17mm
季仇(朱文)16×17mm
[解説]
「西狭頌」は甘粛省成県にある摩崖碑で、後漢健寧4年(171)の刻です。もともと「西狭頌」本文の文字は、字形がまとまり、整然と配されていますが、本文右側に刻された五瑞図に付された、この題記は字形と字間がゆるやかです。
楊峴の臨書も、ゆったりとしておおらかさを感じます。
「隷書易林語軸」
清時代後期
180.5×47.0㎝
[釈文]
安坐無尤幸入貴郷到老安榮
主安多福天禄所伏居之寵昌
君子有光
仲然仁兄大人賞鑑
庸斎弟楊峴
[印]
楊峴信印(白文)16×17mm
季仇(朱文)16×17mm
[解説]
署名の「庸斎」は66歳以前に専ら使用した号です。また60歳以前の落款は、「峴」字の9・10画が短く字形は横広がりのものが多いです。
本作は60歳頃の作かと思われます。
【第2章】
徹底した臨書姿勢
楊峴は、特に後漢の隷書碑を専修します。作品には楊峴の独特の筆法が見られますが、字形や作品のまとめ方は拓本に倣っており、徹底して臨書に取り組んだ様が見て取れます。
原碑の拓本と並べてご覧ください。
「隷書臨曹全碑四屏」
清時代後期
各145.0×38.5㎝
[釈文]
懿明后徳義章貢王庭征
鬼方威布烈安殊荒還師
旅臨槐里感孔懐赴喪紀
嗟逆賊燔城市特受命理
残圮芟不臣寧黔首繕官
寺開南門闕嵯峨望崋山
郷明治恵沾渥吏楽政民
給足 漢曹全碑 藐翁楊峴
[印]
老藐(朱文)17×18mm
五華亭長(白文)18×19mm
[原碑の拓本との比較]
なお、署名の「藐翁」は66歳以降に使い始めた号です。
「隷書臨礼器碑四屏」
清時代後期
各133.0×32.5㎝
[釈文]
惟永寿二年青龍在涒歎霜月
之霊皇極之日魯相河南京韓
君追惟大古華育孫寶倶制元
道百王不改孔子近聖為漢定
道自天王以下至于初學莫不
顔氏聖舅家居魯親里并官聖
妃在安楽里聖族之親禮所宜
異復顔氏并官氏邑中繇發以
尊孔心念聖歴世禮楽陵遅秦
項作亂不尊圖書倍道畔徳離
敗聖輿食粮亡于沙丘君於是
造立禮器 楊峴
[印]
臣顯大利(白文)22×22mm
藐公(朱文)22×22mm
[部分拡大]
[原碑の拓本との比較]
【第3章】
苦難に満ちた人生
度重なる科挙の落第と、内戦による家族の不幸。
科挙は、中国の知識人階級ではみな目標とするところです。及第して官僚となり名誉と富を得て、昇進栄達を目指すのは当然の道筋です。ですが、狭き門ゆえ、数々の悲劇もあります。
楊峴は、幼少より聡明であると周りから褒めそやかされて育ちますが、10回も地方試験(郷試)に落第します。37歳でようやく北京での会試受験資格を得ますが、4度落第します。
それだけで、人生を楽しめなくなるには充分の理由と時間を使いました。そこへ、追い打ちをかけるように「太平天国」の反乱軍が郷里の村を襲い、家族を殺戮されます。17歳の跡継ぎ息子を連れさられ、おそらく自らの人生を呪い、苦悩したに違いありません。行方知れずの息子の帰りをひたすら待ち続ける思いを号にして「遅鴻軒」と名付けます。その後、59歳から地方官吏の職を得ますが、高邁な精神と尊大な振舞のせいで、わずか7年で職を辞してしまいます。辞職の後につけた号が「藐翁」です。「藐」は「さげすむ、見下す」という意味です。
この間に、徐々に楊峴書風が形作られてゆきます。
「隷書蘇軾詩対聯」
清時代後期
各168.0×36.0㎝
[釈文]
不独清心能省事
応須極貴又長生
考庭仁兄大人属 庸齋楊峴
[印]
臣顕印(白文)18×19mm
庸叟(白文)19×19mm
[解説]
字形や筆使いは楊峴の特徴を表し始めていますが、まだ波磔の払い出しは優しげな表情をしています。
渇筆も使っていません。
「隷書五言対聯」
清時代後期
各127.0×31.0㎝
[釈文]
格言多彪蔚
高歩陵雲烟
紫仙仁兄大人属
庸斎峴
[印]
楊峴信印(白文)16×16mm
季仇(朱文 天地逆捺)16×16mm
[解説]
左ハライを伸びやかに引く、横画に太細の変化をつけるなど、工夫の幅が広がります。
「隷書六言対聯」
清時代後期
各128.0×31.5㎝
[釈文]
詩満欄干横処
人随流水東西
庸斎楊峴
[印]
臣顯之印(白文)18×19mm
老復丁(白文)20×19mm
[解説]
字形のバランスを崩しながら、波磔の大きさや線の太細で新しいバランスを作っています。
【第4章】
独特の個性
まるで生き物のようにのたうつ線と、うねりを帯びた波磔が、不思議な魅力を生み出す楊峴の書風はこのようにして完成しました。
「隷書八言対聯」
清時代後期
光緒20年(1894)76歳 作
各207.5×53.5㎝
橙色金砂子蝋箋
[釈文]
童冠斉業襲我春服
棟宇惟隣楽是幽居
遅鴻孱〓(宀+火+夕)楊峴集句
[印]
臣顯印(白文)21×21mm
藐公(朱文)22×23mm
[解説]
「宇」の最終画は途中で左はらいのように方向を捻じ曲げられ、筆先が紙から離れる際に、蛇の口蓋のごとく開かれ、文字でありながら何か別の命を宿したように見えます。
「春」に代表して見られる左右の払い出しは、非対象の形をとりながら横画の線の太さを重石にして、変化の中にバランスを保っています。
「隷書斉民要術語四屏」
清時代後期
光緒19年(1893)
各132.0×32.0㎝
[釈文]
造酒法用黍米麹一升殺
米一升朮米今其酒薄不
任事治麹必使表裏四畔
孔内皆(悉)浄削然後細銼令
如枣粟曝使極乾一升五
升十月桑落初凍則収水
醸者為上時之春酒高者
杜蘇 七十四遅鴻残叟 楊峴
[印]
臣顕大利(白文)22×22mm
藐公(朱文)22×23mm
[解説]
この作品は、中国北魏の賈思勰(かしきょう)が著した6世紀に著した、農業・牧畜・衣食住技術に関する総合農業書『斉民要術』(せいみんようじゅつ)に収録された「造酒法」を書いたものです。
他のどの楊峴作品とも違う書風です。文字として成り立つ限界を探る実験のような作品です。
※『斉民要術』(せいみんようじゅつ)は北魏の賈思勰(かしきょう 生没年不詳)が著した華北の農業・牧畜・衣食住技術に関する総合的農書。92編、全10巻。成立は、532年から549年頃。世界農学史上最も早い農業専門書であり、中国に現存する最古で最も完全な農書である。
まとめ
自信に満ちた前半生から、科挙の挫折と戦禍に弄ばれる中で、高潔であろうとする精神が孤高の自我を醸成させました。その書は彼にしか到達しえなかった魅力と神秘性を含んでいます。
楊峴の作品は、逐次展示いたします。展覧会情報をご確認の上ご来館下さい。
▼観峰館が収蔵する楊峴の作品については、下記のページをご覧ください。通信販売(要送料)にて購入できます。
▼比較した拓本はこちらでもご覧いただけます。