観峰館ホームページ
【展覧会概要】
顔真卿(709~785)は唐時代(618~907)の玄宗皇帝(685~762)に仕えた政治家で、特に安史の乱(755〜763)で反乱軍をおさえて大功を挙げたことで有名です。政治家として紆余曲折を経て、最後は反乱を起こした李希烈(?~786)を説得するために派遣され、そこで捕まり殺されてしまいます。このような人生を過ごした顔真卿は、国家に仕える忠義心の厚い人物として、中国史に名を残しています。
顔真卿は、安史の乱で義勇軍を率いて奮戦したことから武人のイメージが強い人物ですが、彼はもともと文官(軍事以外の行政事務を取り扱う官吏)でした。また、代々学者・能書家を輩出した名家の出身でもあり、学問的素養の高い人物でもありました。
書の歴史においては、唐時代に流行した王羲之(303?~361?)の書風とは異なる、独特の書風を確立した人物として取り上げられています。その書は特に宋時代(960~1279)において高く評価され、手本として学ばれることになっていきました。
顔真卿の書を手本として学ぶ際に必要となるのが、展覧会名にもある「法帖」です。法帖とは、古今の名筆を鑑賞し手本とするため、原本を写し取り、これを木や石に刻し、さらに拓本にとって折帖仕立てにしたもののことを言います。観峰館の収蔵品は、近代中国の書画を中心として約25,000点に及びますが、その内800点ほどが法帖です。
本展は、観峰館が収蔵する法帖の中から、顔真卿の書を刻したものを取り上げ、制作年順に紹介するものです。現代でも手本として学ばれ続ける顔真卿の書をご覧ください。
※本ページの画像をクリックすると拡大してご覧いただけます。
【作品一覧】
【同時開催】
【次回の展覧会】
顔真卿の書に学ぶ-館蔵法帖名品選-/顔真卿の遺伝子-顔法を受け継いだ人びと-
【作品】
1.「多宝塔碑」天宝11年(752)
唐時代の高僧・楚金(698~759)の徳行と、千福寺の境内に多宝塔を建立した功績を述べたものです。多宝塔は天宝4年(745)に完成しています。石碑は、現在、西安碑林博物館に安置されています。
現在確認されている顔真卿の書跡の内、最も早期のものは開元29年(741)の「王琳墓誌」です。次いで、天宝8年(749)の「郭虚己墓誌銘」があります。「多宝塔碑」はそれに次ぐ時期に書かれたもので、顔真卿44歳時の作品です。
「王琳墓誌」と「郭虚己墓誌銘」は、2000年前後に発見された作品です。「王琳墓誌」は河南省の洛陽龍門鎮張溝村から2003年に、「郭虚己墓誌銘」は河南省の偃師市で1997年に、それぞれ出土しました。つまり、この2点の作品が発見されるまでは、「多宝塔碑」が顔真卿の最も早期の作例でした。
「顔氏家廟碑」のような晩年の楷書作品が太い線を用いた力強い書風であることに比べて、「多宝塔碑」はやや細身で落ち着いた雰囲気を持つ書です。顔真卿が若いころに用いた書法が分かります。
観峰館が収蔵している「多宝塔碑」の法帖は7点あり、うち3点は翻刻本、2点は日本で作られた和刻本です。和刻本の1つには、播磨姫路藩の儒者・書家であった永根文峰(1802~1833)が天保4年(1833)に書いた跋文があります。
跋文には、概ね次のような意味が書かれています。
[現代語訳]
現在伝わっている「多宝塔碑」は18字欠けてしまっている。この18字は清の康煕年間(1662~1722)に失われてしまったらしい。ただし、これらの字が欠けても千数百字が残っており、この欠けた18字はいわば鱗が1枚はがれた程度のことである。
私が書を学んだ幼い時に、我が藩(姫路藩)に古い「多宝塔碑」の拓本が伝わった。此の拓本は欠けている部分がなく、文字は素晴らしく、墨は漆のようにつややかで、古風な感じが紙に満ちている。
清の王篛林という人は、この拓本は明の宮廷が所蔵していた宋時代の拓本ではないかと言っている。これは他にない素晴らしい拓本であり、我が家の宝としていたものである。
この拓本を元に刻して出版することを、簡単に記しておく。天保4年(1833)、文峰、永根奕孫。
このように、江戸時代の日本においても、顔真卿の書法が学ばれていたことが分かります。また観峰館は、江戸時代後期の書家・中沢雪城(1808?~1866)の「臨書帖 多宝塔碑」等も収蔵しています。
2.「東方朔画賛碑」天宝13年(754)
東方朔(前154?〜前93?)は、前漢・武帝(前156~前87)に仕えた実在の政治家です。西王母の桃を盗み食べて長寿を得たというエピソードから、長寿の象徴として画題となることが多い人物でもあります。
「東方朔画賛」の本文は、西晋時代の夏侯湛(243~291)が書いたものです。これを、顔真卿が平原太守として赴任した際、再建したものが「東方朔画賛碑」です。顔真卿46歳時の作品となります。天宝11年(752)の「多宝塔碑」に次ぐ作例であり、現存する顔真卿の作品では比較的早期のものです。
天宝11年(752)の「多宝塔碑」よりも線が太く、顔真卿独自の書風が強く表れ出しているように見える作品です。
宋時代に採られた拓本は改鑿が少なく、元・明初期の拓本ではすでに欠損が多かったと言われます。明時代中期には欠損がさらに増え、多くの字が判別し難い状態にあったようです。
拓本の新旧を判断する点がいくつかあります。たとえば、「頡頏」の「頡」左上部と「頏」に欠損があるかどうかが、1つの判断基準になります。
観峰館が収蔵している拓本には、この部分に欠損が見られます。他にも多くの箇所に欠損が見られることから、比較的新しい時期に採られた拓本だと思われます。
3.「顔魯公三表真蹟」至徳2年(757)
顔真卿の三種の表文「謝贈華州刺史表」「謝兼御史大夫表」「譲憲部尚書表」を刻したものです。表文とは、君主や政府に上奏する文章のことです。顔真卿49歳時の作品になります。
顔真卿の行書作品と言えば、乾元元年(758)の「祭姪文稿」と「祭伯文稿」、広徳2年(764)の「争坐位文稿」のいわゆる「三稿」が有名ですが、この「顔魯公三表真蹟」に収められた3つの表文はそれらより前に書かれた作品です。
清時代に発見された墨蹟本を、丹徒(江蘇省鎮江市)の包氏が入手し、石刻にして広めたといいます。同時代には、多種の翻刻本が流布したようです。
観峰館は7点の「顔魯公三表真蹟」を収蔵しています。そのうちの1点には、包祥高(生卒年不詳)が道光4年(1824)に書いた跋文が刻されています(上記の図版とは別の法帖です)。
跋文には一部欠損がありますが、残っている文章には、概ね次のようなことが書かれています。
[現代語訳]
宋の葉夢得(1077~1148)が集めた顔真卿の肉筆が『避暑録話』に掲載されている。宣和年間(1119〜1125)には数十点の作品が残っていたようだ。その最も著名なものは「争座位文稿」で、安師文の家に伝わっていた。(中略)
宣和年間から現在まで700余年、肉筆はさらに見ることが少なくなったが、嘉慶23年(1818)にこの一巻(「謝贈華州刺史表」「謝兼御史大夫表」「譲憲部尚書表」の三表)を得た。これは本当に珍しいこの世の宝である。跋文はないが、押されている印は少なくない。
この三表は北宋から南宋になった後に伝わり、古物に精通していた龍大淵(?~1168)によって鑑定された。元から明にかけての題跋文や識語はなく、近年の跋語に続いている。
道光4年(1824)、丹徒の包祥高が記す。
跋文によれば、清時代には肉筆が一巻になって伝わっていたとありますが、現在では拓本で伝わるのみとなっています。
4.「争坐位文稿」広徳2年(764)
顔真卿が郭英乂(?~766)に差し出した抗議文の原稿です。「争坐位帖」、「争坐位稿」とも呼ばれます。顔真卿56歳時の作品です。
長安・菩提寺における儀式で魚朝恩(722~770)に配慮した郭に対し、従来の官位の序列を重んじるが故に痛烈な批判を展開しています。冷静な書き出しとは対照的な、後半の強い筆圧が特徴的です。
もともとが草稿(下書き)であったため、顔真卿の自然な筆法が表れているものとして、宋代の書家たちに高く評価されています。顔真卿の書を痛烈に批判したことで知られる米芾(1051~1107)も、この書の肉筆を見て「顔真卿の書において最も素晴らしい作品」と述べているほどです。
観峰館が収蔵する「争坐位文稿」は6点あり、その内1点は清時代の書家・楊峴(1819~1896)旧蔵のものです。最終頁に楊峴の印「楊峴信印」が捺されています。
顔真卿の行書作品を代表するものですが、刻し方が不明瞭な部分もあり、顔真卿の肉筆がどのような筆遣いであったかは、慎重に考える必要があります。
観峰館は、呉譲之(1779~1870)の「行書臨顔真卿争坐位帖団扇」や何紹基(1799~1873)の弟である何紹祺(1801~1868)の「臨顔真卿巻」、高邕(1850~1921)の「行書臨顔真卿争坐位文稿四屏」など、清時代後期から中華民国初期に活躍した書家が「争坐位文稿」を臨書した作品を収蔵しています。ぜひあわせてご覧ください。
5.「臧懐恪碑」広徳元年(763)
盛唐時代の将軍・臧懐恪の功績を称え、陝西省の蔵氏の墓上に建立されたものです。「臧懐恪神道碑」ともいいます。顔真卿60代前半の書とされる作品です。石碑の2行目の下部に見える李秀巌(生卒年不詳)が模刻したとの説もありますが、詳しいことは不明です。石碑は現在、西安碑林博物館に安置されています。観峰館は「蔵懐恪碑」の法帖を2点収蔵しています。
明時代の拓本では、すでに「李秀巌」に次ぐ2字が判読できなかったといいます。いくつかの説がありますが、ここにはおそらく「補勒」と刻されていたようです。
他の部分にも多くの欠損が見られます。これらの欠損状況から、観峰館が収蔵している「蔵懐恪碑」については、清時代以降に採拓されたものと思われます。
6.「郭氏家廟碑」広徳2年(764)
安史の乱を平定する際に功績のあった郭子儀(697~781)が、父・敬之(667~744)の廟に建立したものです。郭氏の家系、父子の功績などを述べるほか、碑陰には郭一族の官職が記されています。選文・書ともに顔真卿56歳時のものです。また、題額は代宗皇帝(726~779)によります。石碑は現在、西安碑林博物館に安置されています。
状態の良い拓本は極めて少ないとされます。拓本の新旧を判断する点がいくつかあり、たとえば、「虢土」の「虢」右半分がはっきり見える状態かどうかが、1つの判断基準になります。この部分は、清時代初期には見分けることが出来たようですが、それ以後はかすれてはっきり見えなくなってしまいます。
観峰館が収蔵する「郭氏家廟碑」は、「虢土」の右半分がかすれてよく見えません。このような欠損状態から、この拓本は少なくとも清時代中期以降に採拓されたものだと思われます。
7.「大字麻姑仙壇記」大暦6年(771)
後漢時代の仙女・麻姑についての伝説と、修行の地と伝えられる麻姑山の歴史について述べたものです。顔真卿63歳時の作品になります。
麻姑は中国の書物『神仙伝』に記される仙人です。それに拠ると、麻姑は18歳の美しい女性であり、髪を頭頂部で結い、錦の美しい衣を身に着け、目は輝きを放ち、爪は鳥の爪のように長い、とあります。
顔真卿の手による「麻姑仙壇記」は大字・中字・小字の3種が存在します。観峰館が収蔵している「麻姑仙壇記」は大字本2点のみです。大字本の原石は元時代(1271~1368)以前に失われ、明代に翻刻されたと言われています。
その内1点には、大字本を愛蔵した何紹基(1799~1873)が道光22年(1842)に書いた跋文がともに刻されています。これを「黄瀛石大字麻姑山仙壇記摹刻本」と呼びます。
跋文には、概ね次のような意味が書かれています。
[現代語訳]
顔真卿の「麻姑仙壇記」は、世間ではわずかに小字本が伝わっている。その大字本は宋時代より後に見ることがない。石碑や青銅器について述べている明時代の都穆によって書かれた『金薤琳瑯』では、落雷によって焼失してしまったと言っている。拓本は少ししか残っておらず、鳳凰を見るかのごとく珍しいものである。
私は昔、この宋時代の拓本を蘇州で手に入れた。これはまさしく王士禎(1634~1711)と王澍(1668~1739?)が見たという拓本だろう。長い期間、あらゆるところを流転した拓本だった。それは光り輝いているようで、また素朴で厚みがある書だ。まさにあらゆる顔真卿の石碑の頂点に位置するものである。
黄雨生はこの帖を一目見て素晴らしい宝とし、収蔵していた。黄雨生は息子の瀛石に命じて、これを石に刻させた。瀛石は年少時より顔真卿の書を善く学んでおり、私と同じような志を持った人物であった。
黄雨生と瀛石の親子は数カ月で刻し終えた。多くの素晴らしい拓本が作られたので、長い時間が経っても盛んに用いられているようだ。
このことを喜び記しておく。道光22年(1842)秋、道州(現在の湖南省永州市一帯)の何紹基が謹んで跋を書く。
清時代の巨匠が、顔真卿の書を好んでいたことが、作品と共に跋文も刻されることで伝わっています。観峰館では2021年6月19日(土)~8月29日(日)に夏季企画展「何紹基-清朝巨匠の書-」を開催し、収蔵する何紹基の作品を展示しました。主な展示作品は今も特設ページでご覧いただけます。本展とあわせてぜひご覧ください。
また、跋文末尾には「夢琴」「卓特有泰」の印が捺されています。これは清時代末期の官僚・有泰(1844~1910)の印で、彼の旧蔵品であったことが分かります。
観峰館は、金石研究と篆刻で知られた曾默躬(1881~1961)の「楷書臨麻姑仙壇記四屏」を収蔵しています。中華民国に至っても、「大字麻姑仙壇記」は手本として使用されていたことが分かります。
8.「八関斎会報徳記」大暦7年(772)
「八関斎会」とは仏教儀式の名称で、八悪を閉じ、諸々の罪を生じさせないことを目的とするものです。顔真卿は、安史の乱で功績をあげた武将・田神功(?~774)の病気平癒を祈念するため、宋州(河南省)で八関斎会を行いました。本作は八関斎会を行ったことを記した銘文の拓本です。大暦7年(772)、顔真卿64歳の作品となります。
顔真卿の記した文章は八角の石幢に刻されましたが、武宗(814~846)による廃仏運動(会昌の廃仏)によって倒され、8面のうち5面は損傷を受けたようです。残された3面も土に埋められましたが、後の大中5年(851)に崔倬が掘り出しています。ただし、この段階で残りの3面も傷だらけで、文意も通じなくなっていたそうです。
幸い、倒される前に採った拓本を模して刻されたものが別にあり、それを基にして再刻することが出来ました。しかし、この石幢もまた文化大革命中に破壊されてしまいます。石幢は上下に断たれ、現在はそれぞれの一部しか残っていません。歴史に翻弄された作品と言えるでしょう。
9.「宋璟碑」大暦7年(772)
宋璟(663~737)は唐代の名宰相と呼ばれる人物です。宋璟の孫である宋儼が碑を建てるために、大暦5年(770)、顔真卿に撰文を依頼しました。
顔真卿は大暦7年(772)にこの碑文を書き終え、無事に刻されることとなりました。しかし、いつしかこの石碑は土中に埋まってしまいます。明の正徳年間(1506~1521)に掘り出され、再び世に出ることとなりました。
このような過程を経たため、原石がかなり破損しており、拓本が世に出ることも少なかったようです。
10.「送劉太冲序」大暦7年(772)頃
顔真卿が劉太冲(生卒年不詳)の旅立ちを送別するために記した文です。劉太冲は安史の乱に際して顔真卿に力を貸した人物でした。西方に赴任する劉太冲を顔真卿が激励する文章です。
原本は残されていませんが、南宋時代に作られた「忠義堂帖」に収められています。「忠義堂帖」は顔真卿の書を集めて1つの法帖に仕立てたものです。後に火災にあい一部が焼失してしまいました。
「顔魯公三表真蹟」や「争坐位文稿」などに比べ文字が大きく、やや書風が異なるようです。
11.「元結碑」大暦7年(772)
顔真卿とともに安史の乱を戦い功績をあげ、政治・文学にもすぐれた元結(723~772)の功績を述べる石碑の拓本です。文・書ともに顔真卿65歳の作品となります。元結はもともと顔真卿と親交のあった人物で、上元2年(761)に書かれた「大唐中興頌」の文を作ったことでも知られています。
本文の年紀が欠損しているため、制作年代の確定が出来ませんが、顔真卿が本文中で自身のことを「湖州刺史」と記していることから、この官職にあった大暦7年(772)に書かれたものと推定されます。
広徳元年(763)の「臧懐恪碑」や大暦7年(772)の「宋璟碑」とよく似た書風ですが、太い線の文字や細い線の文字が混在していることから、後世の人によって石碑そのものに手が加えられているとも評されます。
12.「干禄字書」大暦9年(774)
『干禄字書』は、漢字1字につき正字・俗字・通字の3種類を示して説明したものです。顔真卿の叔父である顔元孫(?~732)の著作です。顔真卿が楷書体で書き上げ、石に刻させました。顔真卿66歳の作品です。
「干禄」とは「禄を干(もと)む」と読みます。「禄」は給料の意味で、「給料の入る仕事を求めること=仕官を望むこと」の意です。官吏登用試験である科挙に応じる際、文字の形に関して正しい知識を得るための参考書として書かれました。
正字は漢字本来の成り立ちを示す形で、上奏文や学問的著述・石碑に用いる字形です。俗字は学問的な裏付けを持たない字形のことを指します。通字は久しく受け継がれて定着した字形のことを指し、役所内での文書や手紙などで使用しても良い字とされました。
13.「顔勤礼碑」大暦14年(779)
顔真卿の曽祖父である顔勤礼(597~664)と子孫の功績を讃える石碑の拓本です。顔真卿71歳の作品になります。顔勤礼は篆書と籀文に巧みであり、崇賢館学士などを務めた人物です。石碑は現在、西安碑林博物館に安置されています。
横画を細く、縦画を太くしている文字が多く、これによって「顔勤礼碑」の書風が作られています。
「顔勤礼碑」は中華民国11年(1922)何夢庚(字は客星・生卒年不詳)によって発見されました。詳しくは、本作に一緒に刻されている、清時代末期から中華民国にかけて活躍した宋伯魯(1854~1932)による跋文に記されています。
跋文には、概ね次のような意味が書かれています。
[現代語訳]
この「顔勤礼碑」は、顔勤礼の曾孫である顔真卿によって書かれている。中華民国11年(1922)10月の初め、何客星が長安(現在の西安)にある布政使所属の倉庫後ろの土中より見つけた。石碑はすでに上下二つに断裂していたが、上下それぞれに欠損は無く良い状態だった。
この碑を知る者は少なく、わずかに欧陽修(1007~1072)の『集古録跋尾』に記されているのみである。宋時代に盛行したが、元・明時代の後に時代が変化する中で、この石碑は長安城内に埋没してしまい、千年経ってしまった。後の学者たちも見たことがなかったものである。
この石碑は大暦14年(779)に建てられた。顔真卿75歳の時に書かれたものである。※71歳の誤りです。
建中元年(780)に建てられた「顔氏家廟碑」とわずかに1年の差である。これら2つの石碑は共に長安に存在していたが、1つは地上に残っており、1つは土中に埋まっていた。このたった1年の間に、どうして他の石碑が存在することが出来るだろうか。
欧陽修は、「顔真卿の書は忠義心の厚い人物のようである。また、その端正で荘厳な様を尊重するからこそ、初めてこの書を見た人はみな畏(かしこ)まり、長い間をかけて愛されるものである」と述べている。
また黄庭堅(1045~1105)は、「顔真卿の書は際立って優れており、魏~唐時代(220~907)以来突如あらわれた雅で力強さを持ったものであり、後の世代における宝となるものである」とも述べている。
何客星は石碑や青銅器の銘文などが好きな人で、「顔勤礼碑」を得て眠れないほどに喜んだ。その拓本を見て、その傍らに事の顛末を記した。このような素晴らしい石碑を彼が見つけたことは、偶然ではなかったのだろう。何客星は河南省の人であった。
中華民国12年(1923)の春、醴泉(現在の陝西省)の宋伯魯が記す。
このように「顔勤礼碑」発見の経緯が記されています。顔真卿の書における最晩年の作品の1つとして、「顔勤礼碑」は発見当初から重要視されていたようです。
14.「顔氏家廟碑」建中元年(780)
顔真卿の父である顔惟貞(669~712)を中心とする顔氏一族の業績を刻し、その廟に建てられた石碑の拓本です。顔真卿72歳の作品になります。顔惟貞以前の祖先の業績・顔惟貞の業績・顔真卿ら子孫の業績という三段構成になっており、顔真卿晩年の書としてだけではなく、顔氏一族の業績を詳しく伝える重要な史料でもあります。
石碑は西安碑林博物館に保存されています。また観峰館では、西安碑林博物館協力のもと、復元石碑を作成し、常設展示しています。この石碑については実際に拓本を採っていただくことも出来ます(事前予約が必要です)。
困難の多かった顔真卿の人生において最後に巡ってきた順境の時期に書かれたものであるため、かなり力を込めて制作したものと推察されます。太い線で書かれた力強い書風は、あらゆる困難を乗り越えてきた顔真卿という人物の姿そのものであるように感じさせます。
しかし、書かれている文字の形などから、後世の人によって改変が加えられている可能性があるとの指摘もあります。だとすれば、「顔氏家廟碑」の書風は、後世の人たちが抱いた顔真卿のイメージによって作り上げられたものかもしれません。
【おわりに】
本展では、観峰館が収蔵している顔真卿の法帖を、制作年代に沿ってご紹介しました。中国書法史に名を残す顔真卿の書をお楽しみいただけたのでしたら幸いです。
2022年4月16日(土)から本館4階で開催する春季平常展「顔真卿の書に学ぶ-館蔵法帖名品選-」では、このWeb展覧会で紹介した法帖を実際にご覧いただくことが出来ます。
また、本館5階で開催する春季平常展「顔真卿の遺伝子-顔法を受け継いだ人びと-」では、顔真卿の書を学んだ後世の人々の書を特集します。ぜひ合わせてご覧ください。
▼関連出版物
①『観峰館紀要』第16号
本展で紹介した1~8の作品の図版を一部掲載しています。
②『観峰館紀要』第13号
顔真卿の書を学んだ近代中国の書家による作品を特集した企画展「点は墜石のごとくー顔真卿書法とその継承者たちー」の概要を掲載しています。
③『収蔵品撰集7~楊峴~』
楊峴(1819~1896)旧蔵の「争坐位文稿」を掲載しています。
【同時開催】
【次回の展覧会】
▼主要参考文献
飯島太千雄「試論──顔書の実像」『顔真卿大字典』東京美術、1985年
角井博「争坐位文稿と美の理想」『墨』第252号、芸術新聞社、2018年
瀨川敬也「実施報告 観峰館春季企画展 「点は墜石のごとくー顔真卿書法とその継承者たちー」の概要」『観峰館紀要』第13号、公益財団法人日本習字教育財団観峰館、2018年
外山軍治「顔真卿の書とその背景」『中国の書と人』創元社、1971年
外山軍治「顔真卿」『中国の書と人Ⅱ』創元社、1986年
外山軍治「顔氏家廟碑」『中国の書と人Ⅱ』創元社、1986年
中村史朗「争坐位文稿の書法」『墨』第252号、芸術新聞社、2018年
宮崎洋一「顔真卿書『殷夫人顔君碑』について──顔真卿の晩年の書風に関する一考察──」『書学書道史研究』第1号、書学書道史学会、1991年
宮崎洋一「『争坐位稿』と『郭氏家廟碑々陰』──顔真卿の行書における「草稿」と「完成」──」『文教国文學』第31号、広島文教女子大学国文学会、1994年
宮崎洋一「手本としての「顔真卿」」『広島文教人間文化』第4号、広島文教人間文化学会、2004年
宮崎洋一「顔真卿撰書「八関斎会報徳記」について──伝世石刻の享受の一例──」『文教国文学』第60号、広島文教女子大学国文学会、2016年
宮崎洋一「明清時代の「顔真卿」──宋元時代の評価などとの比較を中心に──」『書学書道史研究』第27号、書学書道史学会、2017年
横田恭三「顔真卿 早年の楷書碑誌」『跡見学園女子大学文学部紀要』第39号、跡見学園女子大学、2006年
吉川忠夫『顔真卿伝──時事はただ天のみぞ知る──』法蔵館、2019年
『顔真卿──王羲之を越えた名筆──』東京国立博物館、2019年
『中国書法全集』第26巻、栄豊斎、1993年